Ivar Ekeland 「偶然とは何か」を読書中
1200年代のヨーロッパに生きたある修道士が、
これまたある神話に対して非常に面白い視点でアプローチした。
彼の名前はエドウィンという。
二人の王がある町の領有権をサイコロをふって決めた。
勝負の決め方は二つのサイコロの出た目の合計を争うという極めてスタンダードなものだ。
強運な二人の王は数回12(つまり2つとも6)を出した。決着はこんな奇跡によってもたらされる。
ある王がふった二つのサイコロの、一つは6、一つは半分に割れて出た目は7。
合計は出るはずのない13になり、勝負は決した。
という神話。
この神話は、いかに王が偉大で神聖な存在であるかを記したわけだけれど、
エドウィンはサイコロの偶然性に疑いの目を向ける。
つまり、ある程度技量を身につければ、
サイコロの出目はある程度操作できるので、
この二人の対決は
偶然(つまり神聖な何かの力)なのか、
必然(つまり誰かの意思が働いた結果)なのか
判別できないとした。
当時、数字が(それが例え意図的に書かれたものとはいえ)大きな意味を持ち、神聖視されていた時代に、
このようなアプローチは極めて過激なものだ。
彼はそこで当事者の意図が介在しえない対決方法を考案した。
当事者が二人以上いる場合にかぎられたものではあるが。
■
「偶然とは何か?」ではこの後、偶然を数学的に生み出す計算式を探求していくわけだけれど、
まぁ、わけわからんので割愛。
以下、感じたこと。
数学的に考えると、この世の結果(R)は、
それぞれの環境要因がどれだけの影響をもっているか(Fn)と、
その要因一つ一つがどれだけの必然性へのベクトル、つまり意思や志向を有しているか(変数Wn)、
によって表される。
つまり、
R=(F1×W1)×(F2×W2)×(F3×W3)・・・
という式で成り立つ。
つまり偶然とは、
Rと(F1×W1)×(F2×W2)×(F3×W3)・・・の結果に全く相関性がないことだと定義できる。
ちなみに「何もしない」ということが別にF=0に結び付くわけではない。
「何もしない」という選択をしている以上そこには意思が存在していることになる。
ここから学べることは、
「世の中って(おそらく)全てが偶然ではなくて、必然性を伴っていること」であり、
つまり「自分が当事者(つまり環境要因)である以上、その結果(R)に対して何らかの影響を与えていること」なんだろう。
自分にふりかかる結果Rが現れる過程では、
自分の意思や志向ではどうにもならない環境要因が様々存在するけれど、
そこには必ず自分が環境要因として存在する。
つまり結果Rを自分にとって価値のあるものにするためには、
結果Rに対する影響度を高める、
すなわち、
先の式のF値(要因としての関係性の深さ)とW値(影響度の高さ)を高めることが重要ことが、
R値を自立的にコントロールする手段なわけです。
キャリアにあてはめて人生の充実度を高める(つまりR値を高める)プロセスを考えると。。。
確かに世の中に起きていることは全て偶然であるように見えて、
その実、それらには意味がある(何をもって意味がある、とするかはまた別の機会に)。
しかし、「意味がある」とは、それはそれ以上の価値も以下の価値もない。
重要なのは、
人生の充実度を高めるにあたってどのようなアプローチが必要なのか、
である。
すなわち、
自分自身のF値を高めることは、
自分のキャリアに対する関係性を深めることであり、
それはすなわち自分のキャリアに対する主体性を高めることに他ならない。
W値(自分のキャリアに対する影響度の高さ)を高めるということは、
①自身のストレングスを強化する
②ストレングスを最大限発揮できる環境を(自分にとって可能な範囲)整備していく
上記の2点を追求することである。
つまり、主体性を発揮しながら、
強みの更なる強化と発揮可能性の向上に、
コミットしていくことが
人生の充実度を高めることになるんですね。