長女は土日が仕事なので、孫の男の子二人を毎週どちらかの曜日に私らが見ている。小2と年中児だが、二人で実によく遊ぶ。 

  大抵は兄弟しか知らない世界に入り込み、そこで二人は主人公になり切り、おもちゃやブロックなど小道具を使いつつ丁々発止のやり取りを展開する。 

  3か月ほど前、冒険ワールドに浸りきって遊んでいるとき、小2の兄が「僕が責任者だ!」というセリフを吐いていた。同じセリフが何回か繰り返されると、弟が我に返ったように訊いた。「ねぇ、責任者ってなーに?」。

  現実に戻った小2はちょっと間を置いてからこう答えた。隣の部屋でパソコンをいじっていた私は、彼の答えに「ウーン、すごい」と思った。

  「あのね、悪いことをしたとき、最初に『ごめんなさい』という人が責任者さ」。

  年中児「フーン、そうなんだ」。

  兄が、責任者の意味を自分なりにしっかり捉えていること、それを咀嚼して弟が理解できるように話したことにしびれた。

  つい、自分も含め大人の世界で説明をしない人や責任を取らない人が横行していることに思いが及んでしまった。兄の説明の的確さと二人のやり取りの清々しさが心にしみた。

  孫と付き合っていると、こうした場面がときどきあるのでとても楽しい。ときに弟が大泣きするような冷たい仕打ちをすることもあるが、お互いが大好きな兄弟だ。彼らが今後どう進んでいくかとても楽しみだ。大きな事故がなく育っていってほしい。

 

※孫たちは昨年あたりから、「豚がぶたれた」みたいなダジャレをよく言うようになった。最近は、兄の方が我が家に来ると「何にしようかな」とか言って、ホワイトボードに今日の作品を書くのが日課になった。一番最近のはこれ。

 

◎ どうくつ(洞窟)でどうくつろぐ?

 

私も言葉遊びが好きなのでいい傾向だと思っている。

  前回、言葉の面から菅さんは国のトップとしてふさわしくないと書いた。言葉こそ、ある意味政治家の命のはずだがそれを大事にしない人が首相という座にいてはいけないのだと思う。私もまだまだ不十分な言葉力だが菅さんよりましだとつい思ってしまう。

 

  書き洩らしたことのいくつかを書き留めておきたい。

  

  一つは、彼の言葉センスについてだ。支持率が高くて意気軒高だった昨年10月ころ、国会で野党の質問に答える際「全集中の呼吸で答弁させていただく」というセリフを言った。人気アニメにあやかったのだろう。そのあと、11月だったかテレビ出演の際「こんにちは、ガースーです」と自己紹介した。ネットの一部で言われていた、自身の愛称を使ったものだ。

  「何だ、これは!」と私は違和感いっぱいだった。彼のキャラクターからいっても総理という立場からいっても全く不適切だと思った。いずれも側近が入れ知恵をして受けをねらったのだろうが、的外れである。「きっと受けますよ」と言われて深く考えもせず採用するセンスにひどく失望した。

  

  もう一つ、センスの悪さ以上にがっくり来るのは彼の「言葉力(語彙力)」の不足である。一年間見てきてこれは違うんじゃないかというのがいくつもあった。

  2月だったか、感染拡大を抑えられなかったことをどう受け止めるかと問われ「素直に反省したい」と言った。これは、おそらく「率直(そっちょく)」を「すなお」と読み間違えたものだろう。7月だったか、これまでのコロナ対策の自己評価を問われたときは「私自身、評価するのは僭越だと思います」と返した。僭越はふつう、出過ぎたことを言ってとか、でしゃばってすみませんがという意味合いで使う。辞書には「僭越ながら申し上げます」「僭越なふるまい」などが用例で出ている。自己評価を言うのは僭越ではなく、むしろ首相の義務だ。もしかしたら、評価は他人にしてもらうもので自分で言うのは「越権」と言いたかったのだろうか。

  8月には、今後のコロナ対応戦略を問われて「目先のことに全力を尽くすのが私の役割」と答えた。「目先」は「目先のことにとらわれるな」みたいに、やや否定的な文脈で使われるのでこれも不適切である。きっと「目の前の課題に」と言いたかったのではないか。いや、コロナは目の前と同じくらい先の見通しを持って取り組むのが重要なので、どっちにしても変だなと思う。

  他にも、「こうしたこと(を踏まえて)」「そうしたこと(を考えながら)」などとよく言うが、「こうしたこと」や「そうしたこと」は普通は二つ以上のことを指すときに使うものだ。でも彼は「これ」「それ」で済むところでもこの言葉を入れる。最近は、ほとんど必要でないところで「私自身」という語を入れる。会見の時間が少しでも長くなるようにという意識ではないか。  

 

  というようなことを書いてアップしたいと思っていたら、昨日の昼12時前、突然、菅氏が自民党総裁選に立候補しないという速報がテレビに出た。びっくりしたが、一連の流れを見れば当然かもしれない。午後1時のぶら下がり会見では「コロナ対応に専任したいので、(エネルギーをたくさん使う)総裁選に不出馬とする」みたいに述べた。その言い訳にまたまたびっくりしたが、ここでの言葉遣いにも違和感があった。

  「専任したい」という語を使っていたのだ(しかも3回)。使うなら「専念」ではないだろうか。辞書では専任は「もっぱらその任に当たること」、専念は「心を一つのことに集中すること」とある。専念したいとは言うが専任したいとは言わない。似てはいるけどどちらが適切かは明らかだと思う。今日の新聞では新聞社が「専念」と書き換えて報道している。政権放り出しの会見でさえこうした違和感ある言葉を使う首相は、言葉遣いの面だけからも首相の名に値しないと私は思う。

 

  この1年(官房長官時代を含めれば8年以上)、トップにふさわしくない人が「権力者ごっこ」をしたことで日本国民や日本国に取り返しのつかない損害を与えたのではないか。前回、私はこのブログで「潔い退陣」を勧めた。結果的に私の言うことを聞いてくれたようでそれはよかった。

  今回は次のように言いたい。この際は首相辞任だけでなく潔く国会議員も辞めて、一国民として、自ら作ってきた「こうした」損害を償う活動をされるようお勧めしたい。

 

☆今日の575

    自分でも 器じゃないと 思ってる

 私はこうした場で人を批判することはしないことにしているが、権力を持っている人は別だ。

権力者は国民の批判に向き合うことが仕事だから。権力者は批判がないと腐っていく存在だと思うから。

で、菅首相批判。

 

 同い年の菅さんが首相になってもうすぐ一年。彼のこの一年の発言を聞いてきて、ほぼ毎回「あぁ、じれったい」や「イライラするな、もう」や「違うだろう!!」という感想を持つ。日本学術会議任命拒否に始まってGO-TOキャンペーン、東北新社優遇問題、五輪問題、そして最大の課題のコロナ対応など、対策(政策)の一つ一つに全く賛成できないことがイライラの主な原因だが、同時に菅氏の言葉の選び方にも違和感が抑えられない。政策面は脇に置いて、ここでは彼の言葉の問題について。

 

 官房長官時の国会答弁は、大体「先ずですね」から始まっていた。先ずというからには、「第2には~~」とか「第3に~~」があるはずだがそれはほとんどない。待っているのに「アレアレ!」である。答弁のスタートの決まり文句になっていたようだ。一つしか答えを訊いていないときでも「先ずですね」が出てきてガクッとなる。この言い方は何だ、と最初の違和感を持った。

 

 総理になってからの発言で特に気になったのは「『い』が足りなくて『を』が多すぎる」ということだ。一例だが緊急事態宣言解除の際、「宣言を解除をすることを決定を致しました」と言っていた。逆に、「このように承知してます」「そう理解してます」「~と思ってます」とくる。そこは「しています」「思っています」だろ、と言いたくなる。どちらも日本語としてどうよ、と思うが改善の兆しはない。言葉に対する真摯な向き合い方も勉強しようとする意欲も先ず見えない。その結果の稚拙である。

 

 金メダリストに見え透いたお祝いメッセージを言う時も原稿を見ながら一方的にしゃべっていたと、ラジオが言っていた。記者会見では官僚の用意した文章を読むだけ、質問には決めた文言を繰り返すだけ。記者会見はできるならやりたくない。やるときはその場を何とかやり過ごすことだけ考える。思いを自らの言葉で語り相手に届けようとする気持ちがないから説得力がまるで生まれない。首相として言葉が貧弱この上ない。

 

 昨年の6月ころまで、菅さんは「総理総裁になることは全く考えていない」と何回も言っていた。それが8月になって、いきなり前言を翻して総裁選出馬。私は以前の言葉は何だったのかと非常に不信感を持った。言ったことは貫いてほしい。それが誠実さというものだろう。考えを変えたのなら、せめて一度謝罪をすべきである。発言し続けたことへの矜持がない。言葉の言い間違いや稚拙さより罪深い。

 

 と、ここまで書いてきて私は思いついた。首相には言葉の力や論理に対する信頼・信用がない、人を動かしたり説得したりするのに言葉や論理が大事だという認識がない、言ったことには責任が伴うという自覚が少ない、それらが彼の言葉の虚ろさや軽さの背景にあるのだ、と。

 だから言葉をそれほど重要視しない。だから発言を磨くことをしない。それの行きつく先が、8月6日広島平和式典での「原稿読み飛ばし」ではなかったか。単なるやっつけ仕事。

 

 反対に、「理屈じゃねーんだよ」「ぺらぺら屁理屈言ってんじゃねーよ」というのが彼の根っこにある思想のように感ずる。それが「ガタガタ言わずに俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ」「言葉なんぞどうでもいい。黙ってやればいいんだよ」という姿勢に繋がっていく。信頼するものは自らの権力(腕力)であるように見える。それを無条件で行使することに一種の恍惚を覚えているのではないか。結果、「オレがやると言ったらやるんだよ。つべこべ言うんじゃないよ」となる。自分の言葉の力に自信はないけど他人の言葉を熱心に聞く「自信」はもっとない。言葉でなく彼の意を汲む人、意を汲んで行動する人を重用する。そうでない人、反論する人・諫言する人は「威嚇する」「恫喝する」「左遷する」。

 大した根拠もなく「これをやりたい」と考え、「これはやる」と決める。あとは部下が何とかしろ、説明文はしっかり用意しろと求める。ここまで単純とは思わないが基本形はこんな感じではないだろうか。官房長官まではそれで何とかなってきた。情けないがそんな政治の現場だった。

 

 しかし首相はそうはいかない。立場上、話す機会や質問に答える機会が格段に増える。聞いている者は首相の言葉(内容はもちろん、話す順番やトーンや話すときの態度)で判断する。言葉に力がないものだから納得が生まれない。聞いている者の大半は部下ではないので忖度や慮り(おもんぱかり)をせず発した言葉に反応する。多くの人が「なんだかなぁ」と感想を持つ。モヤモヤしてしまう。

 だから、これから改善するなら菅氏は政策の転換・充実とともに「言葉力」を高めることが最大の課題になる。しかし政策のほうはともかく、言葉力向上は彼の根っこに言葉への尊敬・信頼がないので残念ながら無理だ。付け焼刃で「言葉力」は上がらないし、無理しても見掛け倒しになる。

 官僚は巧みな言い回しを考え必死に首相を助けようとするが、所詮借り物なのですぐ見透かされる。言葉を信用せず磨くことをしなかったため周りから信用されなくなる。首相自身も最近、自分は言葉で説明することは無理だと気づき始めた気がする。権力者ごっこを一年近くやったのだからもういいのではないか。いつまで恥をさらし続けるつもりなのか。

 

 私は言葉の面から菅氏が国のトップとしてふさわしくないと思っているが、ツイッターに投稿されたもので甚く共感したのが二つあったので紹介する。

 一つは作家・平野啓一郎氏の今年5月19日のつぶやき。

「能力が無いのに人事パワハラでのし上がった首相が、国家の危機に直面して、結局誰もまともな助言をしてくれる人がおらず、利権と政権維持欲と『思い』とカンだけで対処し、甚大な被害を出した、というのは、末永く訓話として伝えられるべきだと思う。彼が嘘つき前首相の後継だというのも漏れなく」。

 もう一つは思想家・内田樹氏の、つい先日8月7日のもの。6日の飛ばし読みに関しての発信。

「こういう時に自分の責任をまったく認めず『完全に事務方のミスだ』と言い訳するような人間はふつうの会社では『最も仕事ができないタイプ』に分類されます。そういう人間がトップになることはふつうはあり得ません。いまの国政が異常なんです」。

 言葉のスペシャリストの二人だけに、思わず唸る。特に平野氏の文はゆっくり声に出して読むと余計に伝わるものがある。

 

 この際、菅氏には潔く退陣することを勧める。

「オリンピックと共に去りぬ」 「感染拡大の大罪と共に去りぬ」。

自民党のみなさんはそこに踏み込めるだろうか。無理かなぁ。

 

 以上、一市民の勝手な思いを書いた。首相を応援する人もたくさんいるはずだ。罵詈雑言は勘弁だが、私が書いたことに即した反論には真面目に対応し自分の言葉や内面を鍛えていきたい。意見がある人はどうぞ。