徳島の夜…。 | 日は照るとも 絶えずとうたり テッピンブログ  ~松永鉄一朗~

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2020年松永鉄九郎門下として、松永鉄一朗を襲名しました。
鉄九郎師匠大阪お稽古場での様子や神戸での邦楽イベント情報などを中心に綴ってまいります。
古典芸能の楽しいところをたくさんお届けできるように綴って参ります。
よろしくお願いいたします。

和佐比路先生の徳島の会は賑やかに終わった。
ゆかた会と同時に和佐次朗師匠(流派内では師匠です)の25回忌…。
少し感慨深いものがありました。

下浚いの日ホテルに帰ったのは23時を回っていたかな…。
買い足した酒と少しのアテでひとり呑みしてたら、記憶がぐる~んと過去へタイムスリップしました。
25年前…そう私はまだ36歳。
小学校3年生になった子供が少年野球をしだしたので、野球が好きだった和佐次朗師匠に報告しようかなぁと思っていたころだった。
私は12歳の時に和佐次朗師匠と物心ついて初めて会わせてもらった。
使ってたグラブを見せていろいろアドバイスをもらった。
普通の父と子が同居してたら何気ない話だが、私はその教えを守って数年後に野球部に入部した。
監督やコーチに教えてもらわないような些細なことだったが守った。
中学、高校とエースだった和佐次朗師匠の説得力ある言葉だった。
そうして、父に憧れてた野球の話。

98年の夏…我が息子が風呂場で一緒に入っているときに野球がしたいと言

ってきた。
私は少し驚いて、そりゃええけどお父さんは土日の仕事が多くて付いて行ってあげられへんで…。
それが答えでした。
でも、野球するのはええことや。行っておいで…と言いながら付いていく父親だった。

何でかというと…当時は世に広まったサカキバラ事件(小学生殺傷事件)が息子が通う隣の小学校で被害者が出ており、学校周辺は厳戒態勢だったのです。
そうして、私は少年野球の沼にはまり…息子にユニフォームが届いたとき写真撮ったので和佐次朗師匠に送ろうと思ってた時だった。

そんな話を母に報告しながら3代続けて野球するねんで…母は私はよう高校時代のユニフォーム洗濯したわって話を聞いた。
私は家で母が洗濯してたのを見ることは少なかった…だって、ハンカチに”よしの”って小唄の芸名でクリーニング屋さんのネームついてたんですから…(笑)
そんな冗談言いながら正月の準備するため母の家に年末で帰省していた私たち家族に訃報が入った…。

母が取った電話の主は鐵吉弥さん…。
祖父、鐵吉治のお弟子さんである。
離婚していた母にも関西の松永連絡網はしっかり残されていたようだった。

今日お通夜や…。
で、徳島へ母と二人で向かった。
気分はアウェー満タンだった。
何しに来るんやって思った方もいるだろう…。

裏めいたことは一つもなく、体のあるうちに単純に顔を見ておきたいだけだった。
私にとって、気になっていたのは後のご家族。
もう、昔の話で割り切っているので、私たちが長く居るのは申し訳ないので1時間いるかいないかだった。

祖父、鐵吉治の葬式もそうだった。
壇上でなく、一般の席に座っていた10歳の私はお弟子様に交じって焼香を上げた。
和佐次朗師匠の時はお通夜で帰って翌日は列席しなかったので、気持ちが高ぶったまま徳島の夜を車で駆け抜けていった。
なんか、その夜はこんなに夜景がきれいに思えなかったなぁ。

下浚いの日に部屋から見えた夜景は何かとても綺麗だった。
私も和佐次朗逝去の歳に近づいている。
若い時のトゲや雑念が取れてなんでもきれいに見えるのかも…。
そんな25年越しの夜景でした。