人は 目に見えるものや音で感触で
五感で感じることのできるものしか、
{確かにあるもの}で[存在しているもの]だと
人は認識できません。
目の前に、1000年前以上から命を繋いできた植物の種があります。
それに水を与えて🌱芽出た時に
植物が生まれたと初めての誕生の喜びを感じ、
大きくなる姿を見て 育っていく 成長していく事に
喜びを感じことと思います。
そして、
蕾から 花が咲いた時に
喜びを大きく感じることでしょう
そして、満足して
終
(そこで終ることは間違えていると思います。)
何故でしょうか?
ー1000年の歴史の生命の襷を止める事になりますー
もう、わたしは考えがシフトしています。
花を咲かせる事は当然の生まれてきた中の過程の一部の段階で終わりではありません。
命かけて、生きる使命のために一生懸命、生きることー全力で
神は幻想や幻の世界の産物ではありません。
確かに生きておられるお方です。
神が太陽の光、空気、水、土、星々を造りましたが
太陽の光や空気、水を 利用し、環境を与えること、管理できる人間は
金などの奴隷を 偽の価値の定義を作り、量産し、支配して
自分が世界の覇者のように振る舞い、
一部の人が 作り出したシステムの歯車の一部のパーツになっていて、
本来の神から与えられた使命を得ることが
ー知ることー
ができません。
だから、神を見失い、自分の生きる意味を失っています。
社会の中で神に仕える使命の者も、もちろんいるでしょう。
神から与えられた使命は一人ひとりの人生があるように
一人一人にそれぞれの役割があります。
大きく用いられ変わったっと周りも認めざるおえない、
劇的に、 神に用いられる人は、これまでの人生を投げ捨てて
神のために生きます。
社会的な死によって
解放され、 神の側で生きるのです。
イエスの弟子達は
「すべてを捨てて、ーあなたに従ってまいりまいりましたー」といいました。
マルコの福音書 10:17-31 JCB)
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本当の誕生日と命は
親や祖父母、子供、兄弟しか、
目に見えないませんが
数えてきれない、人の命のリレー、
襷を繋いできた歴史の結果が
(自分)人間 です。
命の襷だけではない、意志、理念も繋がれております。
そして、
次の時代に
枯れた花びらは『種(たね)』になります。
花を咲かせることで終わるのではありません。
花を咲かせらなれければ、
種にはなれず 、、、
枯れても、エネルギーがある者
意志がある者だけが
次の時代の種を生み出して
時代から時代へ
生きてゆきます。
内容のない生き方をしたものは、
きえゆく運命あることでしょう。
だから
本気で生きた時間だが意味のあるものであり、
その本気の姿は
人のこころを動かし
惹きつけ、意志は繋がれていくのです。
自分が本気で生きてきた時間だけが、
記憶と証として
語り継がれ、
命が消えても
意志は人々の中で生き続けます。
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「 生きる 」とは (何だ?)
時間を生きることだけが生きることではないー
命だけが生きることではない。
見えない魂を信じれない者が
見えない神を知ることなど不可能であることは必然であろう。
肉体が滅びてもなお生き続けることを。
意志は繋がれていてー
内に生きているのだ。
あなたは花を咲かせることも諦めたか?
与えられた使命を見失ったままか?
花を咲かることだけが夢か?
夢は叶えたら消え去るものだ
(残したい 伝えたい 与えたい )
それを 実行し
伝承し 与えた 時に
その信念は
天の宝を
世にも広めることになる。
その意志は
過去、今、未来に
ずっと繋がれて行くものだ。ー