石盤
⑥.日本のスレート
(玄昌石開鑿(さく)業紀功碑より)
(写真:記念碑)この碑は 石巻市 雄勝硯伝統産業会館の玄関口にあります。石盤・スレート産業の基盤を確立に貢献した山本儀兵衛の功績を称えるために造立されたもので、碑文は640字ほどの漢文で綴られ内容は次のように訳されております。
<解説>
玄昌石開鑿業紀功碑 宮城県県知事従四位勲三等森正隆の額を啓く
(抜粋)玄昌石は古く雄勝に産しその鉱脈は今も広大で無尽蔵の富源である。雄勝石とも玄昌石供言われ黒色で硯や屋根材瓦等に使われる。元和年中藩祖貞山公(政宗公)が十五浜路に猟(鹿狩り)をしたとき葛西氏の遠縁にあたる奥田主計が硯2枚を造って献上した。貞山公はその精巧さを喜び硯工に食禄を給し、その鉱区を止め山として子孫まで業を継いで毎年硯160枚を製して藩に納めさせた。明治維新で廃藩になり硯工は禄を止められ山は国にかえした。思えば明治6年自分は横浜の学校で東京の人山本儀兵衛を知った。彼は才知で秀才であった。商才にも優れていた。「智弁才略尤敏(ユウビン)商機」普通以上で山兄と称した。 山本氏は東京生まれの横浜の学校で本町出身の永沼秀実氏と親交を結ぶ。この年十一月に朝廷が陰暦かえら陽暦に変わり休暇を利用して帰省する永沼氏に同行する。雄勝経由で帰る際、山本氏は硯の廃坑の中から一片の玄昌石を持ち帰った。この年に小学校令が発布され、全国各地で校舎を建てられた。当時、学童が学習で使う石盤は全て外国からの輸入品あった。再度雄勝を訪れた山本氏はこれを大いに嘆き玄昌石で石盤を造り、輸入を阻んだ。地元民と図り資金を募り開進社(のち開運社改め)を設立、東京築地に支店を置いて販路の拡大を計り輸入品は大いに減少した。これはわが国における石盤の製造の事始である。 其の時期、西南の役が定まり国事犯の徒を全国の監獄に送ったがここ雄勝にも分館を設置し囚人にこの業を就役させ益々業勢は伸張した。そして宮内庁から宮殿の屋根材をするため十万枚の発注があった。開運社は斯業の光栄として日夜製造を励みこれを納入した。明治十四年春山兄(山本儀兵衛)は深く感じるところあって社務を岩出某に授け、退社して東京に帰った。功をとげ名を成したというべきである。以来この業は止むことなく発展し雄勝の戸口は増え今では十五浜の首邑となり、その採石 は近隣部落十余所に及び、就業者二千数百名一年の産額も20余万円を下らない状態で業に従うものは一生安らかで貧しさやひもじさを知らないのであるが、それは何事も山兄の恩恵によるものが大である。山兄が亡くなってからすでに5年旧友同士兄に対する哀募やみがたく同士を募り雄勝公園に碑を建て、事の謂れを書してこれを後人に語り繋ぐものである。ここにしるす
<碑の建立・大正3年>甲寅
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文:七十八翁 伯堂 永沼秀実
書:七十四翁 巴渓 佐々木舜永
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玄昌石開鑿(さく)業紀功碑の建立のための山本祭(写真)が大正三年四月二十五日山本十七名従業員四百三十四名他計六百十名の寄付者で除幕式を皮切りに五日間行われた。
(雄勝小学校100年の歩み(昭和51年5月P76-79)の中に石盤余話によると)

山本祭(写真)
また、天雄寺に眠る墓石には「長松院鶴翁寿笑居士」山本儀平とあり、 位牌には
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明治四十三年第一月十六日
山本儀兵衛衷 六十三才卒 産地東京府
雄勝浜玄昌石元祖
発起人 本籍牡鹿郡萩の浜之嗣子同苗幸治郎
山本儀兵衛は最終的に雄勝に住み明治四十三年一月十六日に亡くなっている。 |
今回の東日本大震災においてこの記念碑は無残にも崩壊したが幸いにも原型はとどめていた。
いつの日かこの記念碑が再建されることを祈念する。

震災当時の記念碑2011.4.7













































