男の名前は谷村ケンジと言った。
ケンジはエリとはクラスどころか学部も違った。だからなのか、顔にはまったく見覚えがなかった。
年は同い年、最初に付き合ったシンゴでさえ年上だったのでエリは同い年の男と付き合うのは初めてだ、と思った。
だがよく考えればケンジはエリと友達になってほしいと言っただけで彼女になってとは言ってこなかった。同じ学内で揉め事は避けたかったので「友達なら」とエリは了承した。そのときのケンジの笑顔を今もエリは忘れていない。
ケンジと流れる時間は割と良かった。いや、だいぶ良かったのかもしれない。ケンジはいつもエリの気持ちを尊重してくれたしケンジの周りはいつもケンジの人柄からか、たくさんの友人で溢れていた。それを鬱陶しいとは不思議と思わなかった。
ケンジはエリに何かをくれたり食事を奢るような事はなかった。ケンジは実家のある栃木から上京し、大学から4駅離れたアパートに一人暮らししていた。
エリはケンジから何かを貰いたいとは思わなかった。ケンジのアルバイト先の汚い小さな焼き鳥屋、エリが普段なら絶対行かないようなー、そんな場所で皆で飲んだり、ケンジの好きなチームの野球観戦に連れて行ってもらったりチープな時間を楽しめた。
ケンジはよく笑った。エリは自分の感情をいつもうまくむき出しに出来ないでいたけれどケンジはそれを気にする素振りもなく日々の色々な出来事をエリと過ごし、楽しんでくれた。
ケンジの周りの友人もエリを楽しくさせてくれた。
1人の時間が好きだったエリにとってそれがいい事なのか悪い事なのか、だけど間違った事ではないと意識した。
結局辞める事になったけれどケンジが紹介してくれたその汚い焼き鳥屋はエリ以外女の子のバイトもいなかったので割りと楽しく働けた。
だけどそこまでケンジとの時間が増えてもケンジはキスはおろかエリに触れることは一切なかった。
夜遊びして終電を逃してケンジのアパートに泊めてもらってもケンジはエリに手を出す事はなかった。
エリはケンジの少し大きめのスエットを借りて朝まで話したりゲームをして時間を潰した。
ケンジとセックスしてみたい、それはその頃から、あるいはもう少し早い段階で思っていた事なのかもしれない。
ケンジがどんなセックスをするのか、エリにどんなふうに触れるのか、エリは知りたいと思った。
そのチャンスはきっといくらでもあったはずなのにケンジはエリとの小さな距離感を大切にした。
やっとケンジが告白してきたのは出逢って1年後の12月だった。ケンジらしく笑顔で「オレと付き合ってください」エリに言った。エリは嬉しいと思った。でもすぐに返事するのはどうなんだろう・・・一瞬、女のプライドのようなものが見え隠れしてエリは少しだけ考えさせてと言った。
ケンジは分かった、と答えた。
家に帰る途中、新宿でエリは服を見ていた。
だけど集中できず考えていた。
焼き鳥屋のバイトは楽しかった。それはケンジとしていたから、というのが理由の大半を占めている事をエリはよくわかっていた。エリを苛めたり利用しようとする人もケンジの友達の中にはいなかった。多分ケンジと出逢ってから全てがいい方向に向いてるような気がする。大袈裟だけどエリは感動していた。すぐに返事するべきだった、OKよ、って。
その時、携帯が鳴った。
エリがよく会っていた男たちのうちの一人からだった。この男は眞鍋と言って29歳で独身、製薬会社の跡取りだった。
エリの欲しい物はいつも躊躇なく買ってくれた。
エリは反射的に電話に出てしまった。「久しぶり、どう、元気にしてる?」
ああ、こんな声だった・・・エリは思い出していた。最後に眞鍋に会ったのは2ヶ月前だ。エリはケンジとの出会いから徐々に男たちとの連絡を切っていた。それはケンジが好きだとか、そういう甘い感じの理由とは違う気がした。面倒になったのかもしれない。バイトも忙しかったしケンジやその友人たちと飲んだり騒ぐことがエリの予定の大半を占め始めていたから。
ケンジとの時間はとても健全で、エリに何か明るい光をもたらしてくれているような・・・そんな感じだった。
エリは眞鍋に「元気です」と短く答えた。「もうすぐクリスマスだろ。今日これから会えない?何かプレゼントしてあげる」
プレゼント。
この響きはエリを大きく揺さぶった。
ちょうど先週、雑誌で見たあのシャネルのバッグ。欲しくてため息をついたらケンジが「バイトもっと増やさなきゃな」と笑った。あのバッグ。あれが。あれが欲しい。あれを持ってケンジとクリスマスパーティーをしよう。ケンジが不思議がったら親から貰ったと言えばいい。
決まりだ。
「真鍋さん、新宿にいるから迎えに来てよ」
真鍋はすぐにやってきた。エリを車に乗せると誇らしげに「どこに行こうか」と聞く。29には見えない童顔であった。
このあと眞鍋とセックスするんだろうか。エリは断る理由を考えた。バッグを買わせて・・・そのあとすぐ、帰らないとって言えばいい。
眞鍋のセックスは他の男たちの中でも群を抜いて最悪だった。動きも単調でエリのあらゆる場所をベタベタと気味悪く嘗め回し、体臭も少しあった。エリはいつも早く終わってくださいと心の底から願った。
今日はとても気分がいい。絶対セックスは避けなくては。
「伊勢丹でいいよ」エリは笑顔だけは完璧に言った。「いいの、銀座とかじゃなくて?」「うん、伊勢丹がいい。シャネルに行きたいの」「お。何かお目当てがあるんだ?」「うん」伊勢丹の地下駐車場に車を止める。
中は平日だというのにクリスマス商戦で凄い人だった。
眞鍋は露骨に嫌な顔をした。「オレ人多いのキライなんだよね」エリは無視した。
早く。
早くシャネルへ。
シャネルもまた混んでいたがエリの欲しかったバッグはちゃんとあった。エエリは気持ちが高ぶるのを抑えられずにいた。手にとって、肩にかけてみる。眞鍋は似合うじゃん、などと適当なことを言っていたが多分セックスの事しか考えていない。
バッグの値段も見ないで買ってやろうと言うのだ、セックスのひとつやふたつ、するべきなのかもしれない。でもエリは絶対逃げようと決めていた。
それからガラスケースに入っているピアスと定期入れも買ってもらった。本当は時計も買ってもらいたかったが好きな時計がちょうどなかった。
店を出て、ありがとう、と最高の笑顔で真鍋に言った。それから眞鍋と腕を組んで歩く。
眞鍋は満足そうな顔で「じゃあ何か食べに行こうか」と急かす。エリが返事を考えているとエレベーターは1Fのアクセサリー売り場に着いた。
凄い人だった。早く抜け出したくてエリと眞鍋は少し足早に歩いた。
あ。
見間違う筈がなかった。ケンジだ。ケンジとケンジの友人が指輪を見ている。先にケンジの友人がエリに気付いた。彼もまたよく遊ぶ仲間の一人だった。
ケンジに知らせる。ケンジが振り向く。エリが立ち止まる。ケンジと目が合う。一瞬のような出来事だったが一生のように長く感じた。
不気味なくらい静かだった。エリとケンジは目を合わせどちらかが話しかけるのを待っていたようだった。
眞鍋がたまらず「知り合い?」とエリに囁いた。エリは無視した。そして出口に向かってまっすぐ歩いた。眞鍋が慌てて追いかける。
ケンジの友人がケンジに何か言っていたのが気配で分かったが振り向かなかった。ケンジの視線が背中に刺さった気がする。それでも振り向かない。
眞鍋と腕を組んでいるところを見られた。シャネルの紙袋もきっと見ていたはずだ。うまく出来てるな、エリはおかしくて笑った。
ケンジと遊び始めてからも他の男たちと最初の方は逢っていた、でも1度もこんなふうに偶然に見つかる事はなかったのに。ケンジに告白されたこんな日に見られるとはね。つくづくあたしって・・・
伊勢丹を出てすぐエリは眞鍋を上目遣いで見、「ねえ、ホテル行こう。食事より、あたし真鍋さんとしたいの」と言った。
眞鍋に途中まで送ってもらってそこから先は電車に乗った。家までなんて絶対送らせたくなかったからだ。
眞鍋とのセックスはエリにとって久々のセックスだった。眞鍋はエリを可愛い可愛いと言いながらずっと嘗め回していた。思い出して吐き気がした。ケンジからの着信はなかった。自分からもかけようとは思えなかった。
自分の気持ちもよくわからなかった。
家はがらんとして誰もいなかった。
エリはまっすぐ部屋に向かってベットに転がった。ふと部屋の片隅に山のように積まれていた高価なバッグたちに目がいった。起き上がる。眞鍋から今日貰ったバッグを取り出した。あんなに欲しかったバッグだ。エリの顔には知らないうちに笑みがこぼれていた。
「そっか」
全ては気のせいだ。ケンジとの時間が楽しい、と思ったこと。告白が嬉しいと感じたこと。
貰ったシャネルのバッグも他のバッグたちと一緒に無造作に置いた。それをじっと見つめる。
「あたしにはこういうのが似合ってたんだっけ」
明日にでも焼き鳥屋のバイトを辞める電話をしようと思った。