瘠我慢の説 | ゾイド徒然草

瘠我慢の説

 諸君は何歳までサンタクロースの存在を信じていただろうか? 何? まだ信じている? 病院に行け。

 私は十歳、小学四年生まで頑なにサンタを信じていた。さすがに級友たちは皆、サンタの存在が虚偽だと知っている年頃である。そんな中、「サンタなんかいねーよ!」と馬鹿にする級友たちに「いるもん!」と言い返せていたのは、今思えば毎年演出に注力してくれていた父のおかげだった。

 ところが23年前の今日の話だ。終業式が終わって家に帰った私を待っていた光景は衝撃的だった。父が車のトランクから荷物を下ろしていた。その荷物には「おもちゃのビーヤング」の包装紙が……。そして、ばつの悪そうな父の顔。それらは、全てを理解するのに十分な情報だった。

 まさにショックという言葉がふさわしい。自分が確かだと思っていた世界が根底から覆され、茫然自失となった。何かを言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。そんな私に父はこう言い含めた。

「マコトとカオリには黙っているんだぞ」

 その日、私は断片的にではあるが、子供の夢は大人のやせ我慢で担保されていると知ったのである。サンタからゾイドマンモスを「もらった」弟は無邪気にはしゃいでいた。が、弟妹のために沈黙を義務づけられた私は、ゴジュラスを「買ってもらった」ことを素直には喜べないでいた。


 時が過ぎ今、私の手元には『涼宮ハルヒの憂鬱』のDVD全巻がある(ハヒルの方じゃないぞ!)。

 今年もクリスマスが中止になったので、ついさっき、TSUTAYAで借りてきた。同情などするな。私は平気の平左だぞ。いや、やせ我慢じゃないって。

 むしろ、やせ我慢しているのはTSUTAYAで借りたということの方だ。いい歳して収入のしょっぱい私にはDVDのレンタル料金だって馬鹿にならない。きょうび、その気になれば動画共有サイトやP2Pを使って違法にアップロードされたファイルをタダで視聴することは容易だ。だが、その手段はとらない。それをやったら割を食う人が存在するからだ。その人たちのためにやせ我慢するのである。


 誰でも分かることだが、まず直接的にはビデオ屋と著作者が利益を損なってしまう。それに、既に衰亡著しい日本のアニメが滅びたら未来の子供たちはどうする? 私は両親が共働きだったから、アニメに育てられたようなものだ。けしてエゴによって自分たちの代で食い潰していいものだとは思えない。それに今の私はたいしてアニメ好きでもないから、本当に好きな連中に申し訳が立たないじゃないか。

 これが「無印ゾイド」や『/0』になると、もはやビデオをレンタルしているところも通販で全巻揃っているところも少ないのでやせ我慢を決め込むのも困難なのだが、好きなのであればなおのことよく考えてもらいたい。

「悪いのは分かっているけどつい……」と動画共有サイトで済ます者の多いことはよく知っている。しかし自問して欲しい。それって、捕まった万引き犯が口にする言葉ではないか?


 話は変わるが、私は雨の日に濡れて帰るということがままある。天気予報をチェックしなかったためではない。しょっちゅう傘を盗られるのである。傘、なかんずくビニール傘などは「天下の回り物」だと思っている者が多いのだ。大半と言って差し支えなかろう。だが私はその手段はとらない。「天下の回り物」などとうそぶいても、原理的に割を食う最後の一人が存在するからである。やせ我慢で濡れて帰って、傘の持ち主が傘を差して帰るという当たり前の権利を担保してやるのである(実を言うと、雨に濡れるよりも自分を蔑まなくてはならない方が辛いので、特にやせ我慢という意識もないのだが)。


 サンタの存在然り、DVDのレンタル然り、雨の日の傘も然り、世の中の様々なことは、やせ我慢によって守られているのだ。

 私もことゾイドに限っては、やせ我慢して立ち読みで済ませず、やせ我慢して投げ売りを待たず、やせ我慢して建設的でない愚痴は言わず、としているつもりである。

 ついでに言うと余所のサイトに関わらないのもそうだ。いつも好き勝手言っている自分がやってきては皆やりづらかろうと思って余所様とは距離を置いているのである。みんな楽しそう、と遠巻きに見て羨みつつも、やせ我慢しているのである。


 日本のリベラル派のオーソリティである福沢諭吉も「瘠我慢の説」を唱えている。社会の発展の精華である自由と民主主義を至上と位置づけた上で、その対局に位置するはずの封建主義・武士道にも社会を担保する機能を認めたものである。自由を標榜する者こそ、心に侍を飼っていなければならないのだ。


 最後にもう一度言っておく。

 クリスマスが中止でも淋しくなんてないんだからね!


福沢 諭吉
明治十年丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫 (675))