Je t'aime moi non plus | てっちゃんのブログ

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http://www.youtube.com/watch?v=nGdp7AI7D6A&feature=player_embedded

セルジュ・ゲンスブールSerge Gainsbourg
(1928年4月2日~1991年3月2日)
フランスの作曲家、作詞家、歌手、

映画監督、俳優

ウクライナ出身のユダヤ人で、パリ生まれ。
幼名はリュシヤン・ギンスブルグ

(Lucien Ginsburg)


「ゲンスブール」の由来は
高校の教師が

「ギンスブルグ」をうまく発音できず
「ゲンスブール」と読んでいたことで
「セルジュ」はロシア風の

名前から選んだという。
同時にリュシヤンという
ファーストネームに嫌気がさしていたらしい。
1958年にLe Poinçonneur des Lilas
『リラの門の切符切り』でデビューして以来、反体制的な作風で人気を博し1960年代の後半から1970年代にかけてフランスのポピュラー音楽において中心的な役割を果たした。

作詞に、ダブル・ミーニングなどの言葉遊びを多用。 ときには

露骨に性的な内容を語った歌詞が多い。

ジェーン・バーキンは3人目の妻で、
女優のシャルロット・ゲンスブールは
バーキンとの間に儲けた娘。

父の影響で幼少からクラシック音楽に親しみ 絵画にも興味を持っていた。
1947年ごろ、

小遣い稼ぎにギターを弾きはじめる。
1948年に召集を受け翌1949年までおよそ

1年間従軍するが
この間、

脱走を企てたことなどから3ヶ月間投獄。

それに前後して

ギターが生計を担うようになり、
絵画からは遠ざかってゆく。
この期間、
貧困に苦しんで~さまざまな仕事をする合間にはじめて作曲をする。

1951年、

エリザベット・レヴィツキーと結婚する。

1954年、パリのキャバレー
「ミロール・ラルスイユ」で
ピアニストとして働きはじめる。
そこでボリス・ヴィアンの歌唱を聞いて

感銘を受け、
「これなら自分にもできる」と考え。

1958年に歌手としてデビューするまで、
ゲンスブールはパリのキャバレーで

ピアニスト兼歌手として働いていた。
ボリス・ヴィアンの歌唱を聞き、
反骨精神に感銘を受けたことが

後の作風に影響

1965年、フランス・ギャル
ゲンスブールの提供曲Poupée de cire, poupée de son
『夢見るシャンソン人形』
ユーロビジョン・ソング・コンテストの

グランプリを獲得。
当時~若い層を中心に絶大な人気を集め
セルジュの名を一気に高める。
その後も~提供曲は続々とヒットし、
フレンチロリータという伝統の始まりとなる。

話題を呼んだのが1966年のLes sucettes
『アニーとボンボン』
(棒つきの)キャンディを美味しそうに舐める女の子を歌ったもので、
童謡のような曲とアレンジだが
ダブル・ミーニングでフェラチオを

暗示していた。

当時18歳の歌手は~その意味には気付いていなかったと。
セルジュが書いた歌詞に秘められていた
意味に気付いて~人間不信に陥り
恥ずかしさと、怒りから~数ヶ月の引き篭ってしまったという。

『夢見るシャンソン人形』も、蝋人形という死のイメージに
アイドル歌手をダブらせるという意味が込められている。

1967年、ブリジット・バルドーと

不倫の関係を持つ。
バルドーに多数の提供曲を作っている。
Je t'aime... moi non plus
『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』
バルドーは当時の夫ギュンター・ザックスの怒りを恐れ、
この歌のリリースを拒否する

1968年、映画Slogan『スローガン』でジェーン・バーキンと共演。
当時20歳のバーキンはセルジュに

一目惚れ、
Je t'aime moi non plusを

セルジュとデュエット

セルジュにとっては3度目の結婚。
結婚生活は円満で娘のシャルロット・ゲンスブールにも恵まれ、
おしどり夫婦として知られるようになる。
セルジュはバーキンとのデュエットにJe t'aime moi non plus
と同様、性行為を歌ったLa décadance

『デカダンス』がある。

1973年、心臓発作を起こして倒れる。
バーキンは健康にも気遣ってほしいと

懇願するが
セルジュは聞き入れず、以前と飲酒と喫煙を続け。
夫婦の争いが多くなり、
セルジュはバーキンに

暴力を振るうようになる。
1977年、バーキンと離婚。