新しい年になって、年末から自分が体調を崩している間に様々な出来事、事故、事件が有りましたね。

中でも元日の能登半島地震には驚きました。

今でも、被災された方々は現地及び避難所で不自由で大変な事と思います。

東日本大震災で実家のあった陸前高田での避難所生活を目の当たりに見てきたので、

報道されない大変な事実についても、ある程度は経験しています。

食生活、ストレス、体調管理・・等

報道だけではわからない事が沢山あります。

中でも、ネットの記事を見ていて気になったのが、火葬場が追いつかないという記事です。

津波にやられた地方では、特にそうだと思います。

宮城で津波で亡くなった義母、義父達がそんな状況でした。

お義母さんは3月15日に発見され、遺体安置所に安置されていましたが、

地元の火葬場は、津波にやられて、稼働していたのは1軒だけでした。 安置所に安置される遺体が限界を超えて、仮に土葬(火葬せずにそのまま埋葬)という手段が実施されそうになった為に、自分が住んでいる所沢市に相談したところ、

『遺体を棺桶に入れて搬送出来れば、所沢で火葬処理をしててくれる』との事。

当時私はヴォクシーというミニバンに乗っていたので、搬送は可能でしたので、

夜に並んでガソリンを手に入れ、パンやおにぎり等の食料を持って、3月21日の夜に所沢を発ち、宮城へ向かいました。

当時は東北道も通行止めの為、国道4号線をひたすら北上しました。

当時、現地では遺体は検死を終えて、遺体袋に安置されていて、

棺桶が届いたのが3月23日でした。

市役所に理由を話して『遺体の搬送許可証』を(なかば無理やり)発行してもらい、家族と親族に見送られて、3月24日の夕方に宮城を出発しました。

寒いとはいえ、亡くなってからもうすぐ2週間という日数は、ドライアイスも手に入らず臭いが出ていました。

なので、遺体がこれ以上傷まないように、ダウンジャケットを着込んで、窓を少し開けて、暖房も付けずに走った事を覚えています。

東北道の料金所で『遺体搬送許可証』を見せると、係員は、ビックリしていましたが、「お気をつけて」と、通してくれました。

翌日に自宅に着いて、指定された時間に所沢の火葬場にお義母さんを連れて行き、あとは火葬場の方がやってくれました。

通常、県外の方の火葬処理には通常料金+3万円がかかるらしいのですが、特別に免除していただきました。

お義母さんは、無事火葬出来ましたが、当時発見されず、土葬された後に、遺体写真等から発見したお義父さんは、DNA鑑定後に掘り起こされたのですが、とても言葉に出来るような状態ではありませんでした。

せめて、近隣の地域でも協力してあげて欲しいです。

そして、避難所生活の方々が一日でも早く、元の生活に戻れるよう祈ります。