妻と話していて気が付いたことがある。
妻が職場で男性と話した内容を自宅に持ち帰って話す。
妻の職場の男性社員の結婚生活についての話で、「ほとんど話すことがないんだ」といった発言があったらしい。
そのときの妻の反応は、「さびしくないですか?」と聞き、男性社員の方は「さびしくないよ、気楽だよ」と応答。
最初にこの話を聞いた時は、そういう夫婦生活もあるといっただけの感想を持ったが、多少の違和感があった。
違和感の正体は、この会話は実は成立していないのではないかということだ。
妻は、「さびしくないですか?」というのは、男性社員の方がさびしいと感じているのかと聞いているのではなく、妻のフィルターを通して、男性社員の奥様の気持ちを代弁している。
それに対して男性社員の方は、自分に向けられた質問だと思って、回答している。
私も同じように、眼前にいる相手から私に関する質問されると、私のことについて話す。
妻は違って、妻は妻のフィルターを通した他人のことを眼前の相手に話す。
もっと正確にいうと、妻は眼前にいる相手及びその話に関係する他者のことを考えて、眼前の相手に話す。
これが妻の話の主語が誰になっているのかわからず、話が理解できない理由のひとつだと感じた。
ここで得た教訓は、私は一人称、妻は複数称であること。
枕草子などの古典で、主語判断をもっと学んでおくべきだった。