日が暮れるのが早くなり
雲が低く広がっていて
耳まで冷たくなったりして。
暦の上では、冬真っ只中ですね。
寒い!と感じて身体が縮こまる感覚と
怖い!って感じて身体が固くなる感覚は
よく似ていて
もう感じたくない!って
身体の感覚を
シャットアウトしているみたい。
寒いのは苦手なんだけど
怖いのも苦手なのだけど
冬ならではの景色は大好きなのです。
りんとした冷たい空気は
吸い込むと身体の芯がシャキン!!としてきて
空気が澄んでいるから冬の空が綺麗なのか
私の中に入った空気が澄んでいて
そう見えるのかわからなくなる。
雪の降る空を見上げると
全部私に向かって降ってくるから
世界の真ん中に私がいるように思えて
目線をまっすぐ落とすと
私と同じように一面を白く染める雪に
あぁ、なんてばかな事をって
可笑しくなる。
目線一つで
私は世界の中心でも何でもなく
その他の景色の中の一部になる。
今日感じたとても悲しかった気持ちも
切なかった気持ちも
嬉しかった気持ちも
安心した気持ちも
その景色の中の
一部になっていく。
それをじんわりと
幸せだと感じる。
『幸せ』って昔はもっと
ハートが沢山ついたような
特別で
心が高揚するような
キラキラしたもの限定に
名前をつけたものだと感じていたけれど
美しい景色があれば幸せ。
美味しいものがあれば幸せ。
そして色々なことを
話したいと思う
聴いていたいと思う
そんな誰かが
重なった時間を一緒に過ごしてくれる。
それがすごく幸せだと感じる。
それを幸せだと呼ばなくてもいい。
一人一人が違うのだから。
誰かに証明するために
幸せを感じたい訳じゃない。
幸せで在りたい訳じゃない。
ただ
今日この身体が目覚めたことも
ここに空気が在ることも
息ができることも
全部私の意思ではなく
与えられているのだとしたら
この人生に与えられた時間で
感じられるものを
どう味わっていくのか。
変化する周りに
コントロールできないものに
ブンブン振り回されるんじゃなくて
ただシンプルに
自分で決められることは
自分で決めたい。
『ママ』と呼ばれる声があることが幸せで
うるさく感じる時は山ほどあっても
もう、これで充分。
と思うからこそ。
新しいことをはじめる時は
少し怖くて
身体の感覚は寒い時のように縮こまるし
動けなくなるけれど
寒いと感じるより
暖かい方が好きだけど
寒い事が『悪いこと』ではないように
怖いと感じるより
嬉しいと感じる方が好きだけど
怖いと感じることも
嬉しいと感じることも
私たちの中に在る
対等な感情
怖いって感じる度に
蓋をしていたら
怖いを避けた世界しか
私からは広がっていかないから。
怖い気持ちを
そのままにしておく。
どうにかしようとしない。
その怖いの中にしばらく埋もれてみると。
『何が怖いの?』
それを私がわかるから
そこから守ってあげればいい。
怖いまま進む。
って時として
『進む』ありきになってしまって
進んだ先にある『成果』を得たくて
勢いに任せて
とりあえず進む!!と
歩いていた時もありました。
でもそれって
結局は私は逃げている。
怖い気持ちに埋もれているのが嫌で
『感じずに』目をつぶって
ここから逃げ出すことを選んだだけ。
だから何度も何度も
時を変え
事象を変えて
同じ気持ちに巡りあう。
私はただ逃げずに
怖さを感じてみたらよかったんだ。
嬉しいのを感じるのと同じように。
「私は、暗いのが怖かったんだ。」
「私は、寒さに耐えられるか怖かったんだ。」
それがちゃんとわかったなら
小さな灯りをもって歩けるように。
帰ってきたら暖かな毛布を用意できるように。
私は守ってあげられる。
出来ることはたくさん湧いてくる。
その怖さの先にある景色が
冬の美しい景色なのだとしたら
どんな景色なのかな??
それを見てみたくなったなら
その時の気持ちを感じてみたくて
怖くても
歩いていきたいと思うのです。