前回からの続きです。



成功法則本にありがちな、



「私に何か特別な才能があったからこうなれた、というわけではありません」



という表現に、手相観の自分としては否定的見解を持っていて、



「成功するには才能が必要である」



と考えている、ということ。



そして、



そもそも「成功」とは大金を稼ぐようになって世界中を飛び回るようなステレオタイプのようなものだけではなく、人によって種類が違い、



その「成功」に必要な「才能」は皆それぞれ生まれ持っている、ということ。



で、それを引き出す、輝かせるために、


「方法論」や「法則」「仕組み」を知ったり実践することが、役立つ場合は大いに考えられる、という内容でした。





一番言いたいのは、




「『成功』とは、人によって種類が違う」




ということ。





あ、ただ、語弊がないように、



「お金を稼ぐことなんて、偽りの幸せ」



って言いたいわけではないんです。




正直自分も、もっと稼ぎたいし、これからそのつもりでいます。



でも、それは、自分の願望の中の一つであり、


かつ、色んな種類の「成功」というものの一種です。




自分は、鑑定でも時々定義付けするんですが、



「成功」とは「自己実現」だと考えてます。



文字通り、「自分を実現する」と。




それはつまり、


個々人が持って生まれた多種多様の「才能」を活かし、輝かせること。




もう少し簡単に言い換えると、



「自分らしく生きること」。



言葉にすると、なんとも陳腐なものになってしまうんですけどね。



やはりここだと思ってます。




ただ、「自分らしく生きる」ことによって、


必ずしも月商何桁とか、年収何千万とか何億とかだけではなく、


「その人なりの豊かさと経済的自由」


が手に入る可能性も高い、とは思うんですが。




ちなみに、


成功法則本にありがちな、


「桁違いの収入」とか「欲しいものを買い、好きなものを食べ」「世界中を旅する生活」というのは、



「ハデな才能」



が発揮された結果だと思ってます。




大金を稼いで自由を手に入れるという、



「分かりやすい、あからさまな才能」。




正直、そういう種類のものを、「特別な才能」と呼んでしまうことはできると思います。



ただそれでも、持って生まれた「個別の才能」というのは、必ず誰しもにある、ということ。





で、多くのそれ系の本にもありがちな、



「かといって、私に何か人並み外れた才能があったとか、そういうわけでは決してありません」



「昔はこんなに平凡/ダメ人間でした」



というくだり。



なぜそういう見解を著者が持つのかという点について、手相観の自分としては、



「生まれ持った才能というのは、必ずしも若い頃や、人生の物語だったり職歴の最初のうちから発揮されるわけではない」



って考えてます。




そして、ここについては、成功法則本の著者系の、


「派手な才能を発揮して成功する場合」


だけではなく、


「個別の才能」が発揮されて人生が輝いていく場合でも同じだと考えてます。




・・次回最後、『私に特別な才能があったからというわけではありません』ってやつの、手相的見解。(終)に続いちゃいます!