今日の箇所(第一コリント 16:1-12)には、福音宣教は人々と分かち合い、協力して行うものであることが示されています。

 

エルサレムの教会は、飢饉と迫害によって、困難な状態にありました。 パウロは、彼らのための献金をコリントの教会の人々に頼みます。 パウロは、このことをガラテヤの教会にも頼んでいました。

 

エルサレムの教会は、ユダヤ人が中心であり、献金をする教会は、異邦人が中心でした。 彼らの間には葛藤もありましたが、福音にあって一つとなります。

 

異邦人の教会は、エルサレムの教会から福音の負債を負いました。 そこから福音宣教が始まったからです。 そして、今度は、エルサレムの教会が、異邦人教会から送られる献金によって、愛の負債を負う番なのです。

 

また、パウロはコリントの聖徒たちに、自分の福音の働きに協力してくれるように頼みます。 福音は、あらゆる関係と働きを新しくするのです。

 

パウロは、テモテとアポロについて語ります。 若いテモテは、経験が少なく、小心者でした。 パウロはコリントの聖徒たちに、テモテが自分と同じ福音の働き人であることを思い出させ、彼を勧め、励まし、心配することなく主のみわざに励めるようにして欲しいと頼みます。

 

パウロは、アポロを「兄弟」と呼びます。 アポロは、どういうわけか、コリントの教会を訪ねる意志がありませんでした。 そのことをコリントの聖徒たちが誤解する恐れがあったため、パウロは、アポロがいずれ行くだろうと知恵深く伝えます。

 

主の働きは一人でするものではありません。 偉大な伝道者パウロにも、同労者が必要でした。 主の働き人には、教会と信徒たちの協力が必要です。 教会が主の働き人のために祈って支えるなら、多くの良い実が結ばれることになるのです。

 

福音宣教は、一人では成し遂げられず、人々との協力が必要であることを覚えます。 立場の違いから葛藤が生じる時も、互いに主に召された仲間であることを思い出し、心を合わせることができますように。 愛の奉仕をもって、与えられた使命に誠実に歩んで行けますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(第一コリント 15:50-58)には、復活があるがゆえに、現在の私たちの労苦は決して無駄ではないということが示されています。

 

神の御国には、肉のからだで入ることはできません。 現在の私たちのからだは、罪と苦痛という限界から逃れることができないので、神の御国に相応しくないからです。 それで、神様は、新しく栄光ある復活のからだを私たちに与えてくださるのです。

 

主が再臨される日、終わりのラッパが鳴ると、私たちは一瞬のうちに新しいからだを着ることになります。 信仰にあって先に死んだ人々が復活のからだでよみがえり、続いて信仰にあって生きている人々が復活のからだに変えられます。

 

朽ちるもの(罪と苦痛と悲しみのからだ)が、朽ちないもの(永遠の喜びと栄光と祝福のからだ)を着ることになり、死ぬべき肉体が、死に打ち勝つ永遠のいのちのからだを着ることになるのです。

 

終わりの日に起きる信徒の復活は、死に対する完全で永遠の勝利となるのです。

 

私たちを苦しめる敵は、「死」と「罪」と「律法」です。 死の力は私たちの罪によるものであり、罪の力は律法によるものです。

 

しかし、イエスさまは、十字架で贖いのいけにえとして死なれることによって、罪のすべての力を滅ぼされ、復活されることによって、死の力を打ち砕かれました。

 

イエスさまの勝利は、私たちの勝利です。 それゆえ、イエスさまを信じて永遠のいのちを得た者は、新しい人生を歩むべきです。 主の言葉を堅く握り締め、現実の困難に揺るがされず、神の御国のために使命に献身するのです。

 

このような生き方こそ、勝利を与えてくださった主に献げる感謝であり、主の喜ばれる賛美です。 復活の主の前で、私たちの労苦は決して無駄にはなりません。

 

罪と苦しみに満ちた肉体を脱ぎ捨て、義と栄光のからだをまとって、神の御国を相続させてくださる、そのような恵みに感謝します。 終わりのラッパが鳴るまで、みことばの前に堅く立ち、使命に忠実に歩めますように。 その日、労苦に報いてくださる主の御前に喜びをもって立つことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(第一コリント 15:35-49)には、聖徒には、完全な「復活のからだ」が与えられる希望があることが示されています。

 

復活を信じなければ、復活の栄光を待ち望むこともできません。 パウロは「種」のたとえを用いて、復活のからだについて説明します。 種は地に蒔かれて死ねば、もとの姿とは異なる新しい姿の実を結びます。 復活のからだもまた、そのようにして与えられるのです。

 

私たちは、死んだ後、終わりの日に復活しますが、その時のからだは現在のものとは異なります。 現在のからだと連続性はあるものの、全く違う性質なのです。

 

死者の復活も同様です。 復活のからだは、罪と苦しみのある有限な現在のからだとは違い、栄光あるものとなります。 信じる者に与えられる復活のからだは、朽ちることがなく、卑しさのない、栄光に満ちたものなのです。 それは、弱さのない、御霊に属するからだだからです。

 

パウロは、最初のアダムと最後のアダムであるイエスさまを比較します。 最初のアダムは「生きるもの」、すなわち自然のままのからだを持っていたので、アダム以後のすべての人は死を避けられませんでした。

 

最後のアダムであるイエスさまは、「いのちを与える御霊」、すなわち生かす霊なので、イエスさまを信じるなら、救われ、いのちを得ます。

 

復活は、地上での死から解き放たれて、天のいのちを味わうことです。 復活されたイエスさまのからだは、朽ちることなく、神様の栄光と御力を現わします。 イエスさまを信じる私たちも、天に属する主のかたちを持ち、神様の栄光と御力を現わすのです。

 

私たちが後に持つ復活のからだは、キリストのかたちに似て、最も栄光あるものなのです。

 

復活の時に、強く永遠で栄光に満ちたからだに変えられることを信じます。 今は土に属する者の姿ですが、後に変わる天に属する者の姿に希望を持って生きることができますように。 主が再び来られるその日まで、心身をきよく保ち、主に喜ばれる歩みをして行くことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(第一コリント 15:29-34)には、苦難に耐え、罪に打ち勝たせてくれるのは、復活の希望であることが示されています。

 

パウロは、復活が事実であることを再び論証します。

 

死者のために受けるバプテスマとは、「生きている者が死者の代わりにバプテスマを受ける」ということではなく、「死者のからだにバプテスマを授ける」ということでもありません。 これは「死者のゆえにバプテスマを受ける」ことを意味します。 すなわち、信仰を守って死んだ者の生き様に感動したり、御国でその人に再会することを願ったりして、バプテスマを受けることです。

 

復活は、未来の約束であるだけでなく、現在の危険の中でも忍耐して生きるようにしてくれる希望です。 復活そのものが、力強い福音の証なのです。

 

このような約束と希望があるため、聖徒は福音のために人生を献げ、どのような危険に晒されても、信仰を守ることができるのです。

 

復活を信じない者たちは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」と、肉の満足や快楽のために悪い行いを選択します。

 

復活は、この世での人生がすべてではなく、後に永遠の人生があることを想起させます。 そのため、復活の希望を抱く者たちは、良い行いを汚す悪い者たちを拒みます。その反面、復活を信じない者たちは、聖徒の良い行いを汚します。

 

聖徒は、目を覚まして正しい生活を送り、罪を遠ざける必要があります。 また、復活の希望を握り締め、神のみことばと御霊の導きによって目を覚まし、罪に打ち勝ち、義を選択することが求められています。

 

復活の希望は、現実を価値ある栄光に満ちたものにしてくれるのです。

 

復活も力も希望もないこの世の人々のように、自分も現実に埋もれて生きているのではないかと自らを省みます。 死の向こうに永遠の人生があることを覚え、肉体の満足を追い求める心を捨てることができますように。 日々罪に死に、みことばに敏感に反応する御霊の人となれますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(第一コリント 15:20-28)には、イエスさまの復活は、私たちが復活し、勝利を得る保証であることが示されています。

 

キリストの復活は、眠った者たちの「初穂」です。 これは、祭儀で献げる初穂のように、神様に栄光を捧げたことを意味します。 また、初穂が後に続く豊かな収穫を保証するように、すべての聖徒の復活を保証します。

 

アダムの罪により、すべての人が死に至りましたが、キリストの従順により、キリストにあってすべての人がいのちを得るようになります。 イエスさまが死に打ち勝ってよみがえられたので、この方が再臨される時、その方に属する者たちは皆、栄光の内によみがえるのです。

 

イエスさまは、罪のあらゆる権威と権力を滅ぼし、神様に栄光を捧げられます。 キリストの復活が、私たちを神様の栄光と終わりの日の希望に生きる者へと変えてくれるのです。

 

よみがえられたイエスさまは、神様の支配を拒む敵を滅ぼし、最終的に死の力を滅ぼされます。 イエスさまの復活は、この方が栄光に輝く統治者であり、王の王であることを現す出来事であり、神様に対抗するすべての敵の滅びの始まりです。

 

イエスさまは、万物を神様のみこころのままに統べ治められます。 イエスさまの復活(過去)と統治(現在)と勝利(未来)は、すべて神様のみこころの成就であり、神様の栄光となります。

 

イエスさまは、ご自分を信じる者たちにも、復活と勝利を保証してくださいます。 復活のいのちを得た私たちは、キリストの統治にあずかり、この地に神の御国を実現して行く、栄光に輝く存在なのです。

 

イエスさまの復活は、私たち自身の復活と勝利の保証であることを肝に銘じたいと思います。 イエスさまの再臨の時には、私たちも栄光の内に完全に新しくされ、真に実りあるいのちに生きることになるという希望と共に、葛藤の多い今日を生きたいと思います。 今も神様がすべてを統治してくださっていることを覚え、日々、みこころに従って歩むことを通して、神様に栄光を返して行きたいと思います。 御霊の照らしと導きがありますように。