今日の箇所(マタイ 26:47-56)には、損失や危機の前でも、最後まで主にすがることができる者こそが、真のイエスの弟子であることが示されています。

 

「イエスを裏切ろうとしていた者」、つまりイスカリオテのユダが、剣や棒を手にした群衆を連れてやって来て、イエスさまに口づけをして、「先生」と言います。 これは、夜中の暗闇の中で、弟子たちの中にいるイエスさまを示すための合図でした。

 

このように、ユダはイエスさまに口づけして「先生」と呼びましたが、それは本来、弟子が師に示す敬意の表現でした。 しかし、彼の心は既に師であるイエスさまを裏切っていたため、その口づけは「うとましい演技」に過ぎませんでした。

 

私たちも、信仰という名の「演技」をしていないか、自分を省みる必要があります。

 

主が捕らえられると、弟子たちの赤裸々な姿が現れます。 ペテロは剣で祭司長のしもべに切りかかり、彼の耳を切り落とします(ヨハネ 18:10)。 しかし、イエスさまは、暴力ではなく憐れみと愛を示し、敢えて十字架の道を歩まれます。

 

以前、ペテロを筆頭に、すべての弟子たちは死を覚悟し、イエスさまにつまずかないと豪語しました(26:35)が、いざいのちの危機が迫ると、イエスさまを捨てて逃げ出します。 ここに私たちの真の弱さがあります。

 

イスカリオテのユダは「金銭」のためにイエスさまを裏切り、他の弟子たちは「危機による恐れ」によってイエスさまを捨てたのです。 金銭や危機を前にした時、その人の本心が表れます。 真の弟子は、損失や危機の前でも、最後まで主にすがります。

 

自分も信仰という名の「演技」をしていないか、今一度、自分の心を探りたいと思います。 自分の弱さを素直に認め、自分には聖霊の内なる助けが必要不可欠であることを告白します。 たとえ大きな損失や危機に直面しても、最後まで主だけにすがることができますように。 主の臨在だけに平安を見出して行くことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(マタイ 26:36-46)には、誘惑に打ち勝つためには、目を覚まして祈る必要があることが示されています。

 

イエスさまは、弟子たちと一緒に、ゲツセマネに行かれます。 ゲツセマネに着いたイエスさまの心には、深い苦悩が渦巻いていたことでしょう。 暴風も鎮められた方が、悩みと悲しみの中で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と弟子たちに弱さを打ち明けられます。

 

イエスさまは神の御子ですが、同時に完全な人間としてこの世に来られた方です。 主の苦悩は、人間のための重荷を一人で負われた苦悩でした。 そんな状況でイエスさまが行かれたところ、それが祈りの場でした。

 

イエスさまの姿から、私たちは重要な教訓を得ることができます。 信仰とは、むやみに強いふりをすることではなく、私たち自身の姿をありのまま認めて、神様の御前に出て行くことです。 そうする時、神様のみこころに従う力を得るのです。

 

イエスさまは弟子たちに、一緒に祈って欲しいと頼みます。 ところが、弟子たちは、主の切実な頼みにも関わらず、眠ってしまいます。

 

イエスさまは「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と言われます。 「目を覚ます」とは、これから起こる危機を注意深く見る姿勢を指しています。

 

もし弟子たちが直後に何が起こるかを知っていたなら、眠ることなどできなかったでしょう。 イエスさまはこれから起こることの意味を知り、目を覚まして祈ったので、「父が望まれるままに」従うことができたのです。

 

私たちは、目の前の状況や出来事の意味を尋ね求め、危機に耐える力を得るために、目を覚まして祈る必要があります。

 

担い切れない苦しみと悲しみが押し寄せる時、主のように父の御前に出て行けますように。 肉体の疲れや忙しさにかまけて、日々の祈りを疎かにしませんように。 主のみこころを見出し、従うことができるよう、目を覚まして祈る弟子となって行けますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(マタイ 26:26-35)には、聖餐式は、私たちが信仰の歩みを着実に続けて行くために与えられた恵みであることが示されています。

 

十字架につけられる前夜、イエスさまは弟子たちと最後の晩餐を取られます。 これが、聖餐式の起源です。

 

聖餐は、現在を「過去」と結び付けてくれます。 私たちのために血を流し、肉を裂かれたイエスさまの十字架を覚える礼典だからです。

 

また、現在を「未来」と結び付けてくれます。 過去の十字架だけではなく、神の御国で新しいぶどう酒を共に飲むその日を期待させてくれるのです(第一コリント 11:26)。 すなわち、聖餐は、イエスさまが再び来られ、この世に神の御国を完成される未来を見据えさせてくれるわけです。

 

聖餐は、過去の恵みと未来の希望が、現在の時間の中で手を結ぶ神秘なのです。

 

イエスさまは「今夜」弟子たちがご自分につまずくと予告されます。 これは、旧約聖書の預言の成就です(ゼカリア13:7)。

 

さらに、ペテロについては、3度ご自分のことを知らないと言うことまで予告されます。 ペテロをはじめ弟子たちは、たとえ死ななければならないとしても、決して主を離れないと豪語します。

 

彼らは本心から言ったのでしょう。 しかし、弟子たちは結局、イエスさまを捨てて逃げてしまうことになります。

 

信仰は、瞬間的な覚悟だけでは守り通すことはできません。瞬間的な愛の告白が、一生涯の幸福な結婚生活の保障にはならないように、瞬間的な信仰告白は、信仰の勝利の担保にはならないのです。

 

信仰は、「瞬間的」ではなく、「人生の全課程」において、真実を現すことが求められています。 私たちには「瞬間的」ではなく、「瞬間ごと」の決断と勇気が必要とされているのです。

 

十字架でからだを裂かれ、血を流して私たちを救ってくださったイエスさまの愛を、今日も心に刻みたいと思います。 取るに足りない私の人生を、主の御前にお献げします。 十字架の苦しみを超えて、復活の栄光へと導かれる主に従って行けるよう、主が私の信仰を強めてくださいますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(マタイ 26:14-25)には、私たち聖徒は、イエスさまを裏切るように仕向けるサタンの誘惑を断ち切る必要があることが示されています。

 

イスカリオテのユダは、12弟子の一人でした。 そんな彼が、祭司長から銀貨30枚と引き換えに、イエスさまを売り渡します。

 

律法によれば、銀貨30枚は、牛が他人の奴隷を突いた時、牛の主人が奴隷の損失を補うために支払う賠償金の額でした(出エジプト 21:32)。 つまり、イスカリオテのユダがイエスさまを売り渡した金額は、奴隷のいのちと等しいものだったわけです。

 

イエスさまのことを神の御子・キリストと信じていたなら、そのようなことはできなかったでしょう。 イエスさまの価値を知らないと、この世の価値が大きく見えるのです。

 

私たちも、イエスさまと引き換えに銀貨30枚を得ようとする誘惑に遭うかも知れません。 イエスさまの本当の価値を知る時、世の誘惑を振り払うことができるのです。

 

弟子たちは、イエスさまのことばに従って、過越の食事の場所を用意します。 その後、過越の食事の席で、イエスさまはイスカリオテのユダの裏切りを予告されます。

 

ルカは「イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った」(ルカ 22:3)と記しています。 サタンが入った時、ユダは狂ったように暴れたわけではありませんでした。 むしろサタンは、静かにユダの心に忍び込み、「考え」を操りました。 このように、サタンの真の攻撃とは、私たちの考えを掌握しようとすることなのです。

 

なので、自分の考えが、すべて自分によるものだと思ってはなりません。 サタンが与える考えもあるからです。

 

私たちは、いつも神様のみことばに照らして判断し、何よりも、いのちの泉が湧くところである自分の心を見守る必要があります(箴言 4:23)。

 

裏切ることを知りながら、最後までご自分の弟子が立ち返るのを待っていてくださった主の愛をあらためて知りました。 自分の心が罪に捕らわれないよう、御霊で満たしてくださいますように。 「銀貨30枚」の誘惑を振り払いつつ、真の主の弟子として、まったき愛の主と共に歩んで行けますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(マタイ 26:1-13)には、まことの弟子とは、どのような存在であるかということが明らかにされています。

 

イエスさまは、過越の子羊として、全人類の罪を負われます。 過越の祭りが近づくと、イエスさまはご自分が十字架につけられることを予告されます。

 

その頃、祭司長たちと民の長老たちは、大祭司カヤパの邸宅の庭に集まり、イエスさまを捕らえて殺そうと相談していました。 きよくあるべき大祭司の家が、陰謀を画策する謀議の場となっていたのです。

 

彼らは、民の間に騒ぎが起こることを恐れて、祭り(過越)の間はやめておこうと言います。 彼らが恐れていたのは、「神」ではなく、「人」でした。

 

神様を恐れず、人の顔色を窺う指導者は、簡単に道を外れます。 人を尊ぶことは大切ですが、何よりもまず神様を恐れなければなりません。

 

ある女の人が、壺に入った香油を持って来て、イエスさまの頭に惜しみなく注ぎます。 ヨハネは、この女の人はラザロの姉妹マリアであると記しています(ヨハネ 11:1-3)。

 

それを見ていた弟子たちは憤慨し、「慈善」というもっともらしい理由をつけて、彼女が高価な香油を「無駄にした」と非難します。

 

本来、彼らは彼女の愛と献身に感銘を受け、チャレンジを受けるべきでした。 誰かを心から愛するなら、与えることは惜しくないからです。

 

弟子たちは、イエスさまの受難予告を3度も聞いたにもかかわらず、高い地位に着こうとして争いました(20:17-28)が、この女性は高価な香油でイエスさまの埋葬の準備をしました。 誰がまことの弟子でしょうか?

 

まことの弟子は、主のための「聖なる浪費」を惜しみません。

 

人を意識し、神様への恐れを忘れるなら、罪に陥ることが分かりました。 主を愛し、その愛によって最も大切なものを主に献げることができますように。 他の人の献身を評価することなく、主のための聖なる浪費の人生を追い求めることができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。