今日の箇所(マタイ 12:22-37)には、私たちが日常で話す言葉は、終わりの日の裁きに繋がっているということが示されています。

 

イエスさまが行われた奇跡を見て、多くの人々が神様を崇めます。 ところが、パリサイ人たちは、イエスさまのみわざを悪霊の力によるものだと考えました。

 

奇跡に対する解釈は「心の眼」で行うものです。 パリサイ人たちは、光を見ても闇だと言い、聖霊のみわざを見ても悪霊のわざだと歪んだ解釈をしたわけです。

 

すると、イエスさまは「御霊に対する冒涜」は赦されないと言われます。 ご自分の民を罪から救うために来られた方が、罪の中には赦されない罪もあると言われたことは、衝撃的です。

 

聖霊は真理の御霊です(ヨハネ 14:17)。 聖霊を故意に非難して拒む頑なな心は、真理と救いへの道を妨げるのです。

 

良い木が良い実を結ぶように、良い人は良い言葉を語ります。 イエスさまはパリサイ人たちのことを「まむしの子孫たち」と言って、叱責されます。 まむしが毒を吐き出すように、パリサイ人たちが悪い言葉ばかり吐き出すからです。

 

人は心に満ちていることを口で話します。 イエスさまは、裁きの日に義と認められるか、不義に定められるかは、その人の「言葉」にかかっていると語られます。 口にする言葉は、現在だけでなく、終わりの日にも影響を与えるということです。 私たちが口にする言葉は、終わりの日の法廷で重要な証拠として提示されることになるのです。

 

言葉は内なる人と心を映し出す鏡です。 イエスさまを信じて救われたなら、心と口に変化が現れるはずなのです。

 

少しでも油断してみことばから離れると、心はすぐに悪いものに染まってしまうということを憶えます。 私の唇と心が主のみことばで満たされて、きよめられますように。 主に留まって愛の実を結び、人を生かす言葉が私の内から溢れるよう、主が導いてくださいますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(マタイ 12:1-21)には、律法の形式だけを追う熱心さの危うさについて示されています。

 

安息日にイエスさまと弟子たちが麦畑を通っていた時、空腹だった弟子たちは麦の穂を摘んで食べました。 律法は、隣人の畑で穂を摘むことは禁じていません(申命記 23:25)が、それが安息日だったことが問題になります。 パリサイ人たちがそれを見て、非難したのです。

 

しかし、イエスさまは、ダビデのしたこと(第二サムエル 21:1-6)と祭儀法を根拠にして、弟子たちの行為は問題とならないと言われます。

 

旧約聖書の言葉と伝統は、パリサイ人には憐れみのない断罪の基準でしたが、イエスさまにいのちを生かす憐れみの基準でした。 イエスさまが示されたように、弱い者を憐れんで、いのちを生かすことが、律法の精神です。

 

今度は、会堂で、パリサイ人たちがイエスさまを試みます。 彼らは、片手の萎えた人を指して「安息日に癒やすのは律法に適っていますか」と質問します。

 

イエスさまは、安息日に穴に落ちた一匹の羊のたとえを語り、「安息日に良いことをするのは律法に適っています」と言ってから、彼の手を癒やされます。

 

すると、パリサイ人たちは出て行って、イエスさまを殺そうと相談し始めます。 イエスさまを殺そうとする宗教指導者たちの意図が初めて言及された場面です。

 

イエスさまは安息日に良いことをされましたが、パリサイ人たちはイエスさまへの殺意を表しました。 安息日を本当に破ったのはどちらでしょうか…。

 

根本精神を失って律法の形式だけを追う者たちの熱心さは、最終的には宗教的狂気になってしまうのです。

 

自分の考えで主のみわざを判断しようとしていた自分の愚かさを省みます。 人生において何かを選んだり、決めたりする時、また良し悪しを判断する時、主のみことばを基準にできますように。 従順を通して、主の救いのみわざ、いのちのみわざにあずかれますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(マタイ 11:20-30)には、悔い改めて、主イエスと共にくびきを負う歩みが、心に真の平安と安らぎを得る道であることが示されています。

 

イエスさまは、コラジン、ベツサイダ、カペナウムなど、ユダヤ人の町々で数多くの奇跡を行われました。 しかし、彼らは、悔い改めなかったため、主の叱責を受け、厳しい「裁き」を受けることになります。

 

人々は、人生の問題や限界に出会うと、奇跡を求めます。 しかし、奇跡や恵みが数多く与えられても、その結果が必ずしも悔い改めへと続くわけではありません。 これは、イエスさまの力あるみわざを見て、経験しても、悔い改めない人が多かったことからも分かります。

 

悔い改めと生き方の変化によって応答しないなら、その経験した奇跡や恵みは、かえって裁きの根拠になるのです。

 

イエスさまが力あるみわざを数多く行われた町々が悔い改めなかったのは、自らを賢いと思っていたからです。 自分の知識や判断に頼る人は、恵みの前で悔い改めることができません。 自分の無知と弱さを認める「幼子」のような人だけが、悔い改めることができるのです。

 

彼らは主の招きを受け、主のくびきを負い、主から学びます。 初めてくびきを負う幼い牛は、経験のある牛と一緒にくびきを負います。 2頭が一緒にくびきを負いますが、その重さのほとんどが経験のある牛にかかります。 同じように、弟子が負うくびきを主が一緒に負ってくださいます。

 

弟子の道は、十字架の道であり、苦難の道ですが、心に真の平安と安らぎを味わう道なのです。

 

苦しい時には奇跡的な救いを必死で求めながらも、いざ奇跡的な救いを経験しても、主の御前に不信仰を悔い改めようとしない自分であることを認めます。 その裏にある、自らを賢いと考えている自分、自分の知識や判断に頼ろうとしている自分であることをまず認め、悔い改めます。 主が重荷を共に負って歩んでくださることを信頼し、たとえ苦難の道であっても、主と共に歩んで行きたいと思います。 主にある真の平安と安らぎを味わうことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(マタイ 11:1-19)には、霊的無感覚な疑いの時代に、聖徒である私たちが信仰に生きる秘訣について記されています。

 

牢獄にいるヨハネが、イエスさまのもとに弟子たちを送ります。 「おいでになるはずの方はあなたですか」と尋ねさせるためです。 この質問から、彼のイエスさまに対する確信が揺らいでいたことが感じ取れます。

 

しかし、イエスさまは、彼を叱責せず、ありのままを見るように伝え、女から生まれた者の中で彼より偉大な人物は居ないと言われます。

 

バプテスマのヨハネでさえ確信が揺らいだのなら、私たちの中で確信が揺るがない人は誰も居ないでしょう。

 

重要なことは、ヨハネのように、信仰の質問をもってイエスさまのみもとに出て行くことです。 そうすれば、私たちの疑問に答えてくださる主の御声を聞くことができるでしょう。

 

イエスさまは、不信仰な時代に向かって、「笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸を叩いて悲しまなかった」と嘆かれます。 福音は喜びの知らせです。 その喜びは、涙の悔い改めに繋がります。 しかし、不信仰な時代は、バプテスマのヨハネとイエスさまの福音の宣言に対して、喜びによっても、涙によっても応答しませんでした。

 

霊的に無感覚な時代は、福音に背を向けて、自分の生きたいように生きます。 そのため、断食するバプテスマのヨハネに向かって、悪霊に憑かれていると非難し、食べたり飲んだりするイエスさまに向かっては、「大食いの大酒飲み」などと皮肉を言うのです。

 

信仰生活は、みことばに従って生きることです。 私たちは、自分や世にではなく、神様に従って生きる必要があるのです。

 

理解できない状況にあっても、主の御前に出て、尋ねたいと思います。 現実の状況を超えて、福音の力、いのちの力を見ることができるよう、主が霊の目を開いてくださいますように。 主を誤解して背を向けるこの時代に、イエスさまこそ人類を救ってくださる唯一の方であることを、揺らぐことなく伝えられますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(マタイ 10:34-42)には、イエスさまの弟子として、私たちが受けるものと失うものについて記されています。

 

イエスさまは、福音を宣べ伝える弟子たちには、「失うもの」があると言われます。 それは、まず、家族です。 信仰的な対立によって家族との睦まじい関係を失うことがあります。 信者でない家族にとって、福音は平和ではなく、「対立の剣」となり得るからです。

 

また、弟子の道は十字架を負って主に従って行く道なので、いのちまで失うこともあります。

 

このように、キリストの弟子は、福音のために大切なものを放棄する代価を払いますが、その道には「得るもの」もあります。 世よりも偉大なイエス・キリストを得、永遠のいのちを得るのです。

 

「失うもの」と「得るもの」のうち、どちらを重要視するかによって、世の人と弟子が分けられるのです。

 

イエスさまは、弟子たちを受け入れることは、イエスさまを受け入れることであると言われます。 この言葉は、イエスさまが宣教のために弟子たちを遣わされたことと関連があります(10:5-6)。

 

預言者を預言者として認めて受け入れる人は、預言者の受ける報いを、義人を義人として認めて受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。 同様に、弟子の中の小さい者でも、イエスさまの弟子だと認めて受け入れるなら、弟子が受ける報いを受けます。

 

これは、大きな歓待だけでなく、「一杯の冷たい水」を飲ませることも含まれます。 つまり、福音を伝える者たちのために祈ったり、一言の慰めの言葉をかけたり、小さなことで仕えたりすることを通しても、私たちはイエスさまを受け入れ、その方に栄光を帰すことができるということです。 これが天の報いを受ける秘訣なのです。

 

対立を避けて、一時的に偽りの平和を追求しがちな自分を省みます。 世の基準で良いものを失ったとしても、十字架を負ってイエスさまに従う信仰と勇気を持つことができますように。 主が遣わされた人々に、主の愛をもって温かい視線と助けの手を送ることができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。