何でわざわざ売ってる物を生命を賭けて捕りに行く事になったかというと、
前からナルシストならぬ、ナチュラリストに対して違和感を覚えていた。動物を殺して食べる事への畏怖の念や、波動の低い物を食べる事で自分もその循環に身を投じてしまう...なんて考え方もあり、だから殺生はしないとか、精進料理を良しとしたり。東洋だけではなく、西洋でもそういった考え方があって、内容を見てみればその正論性に縋っている人達にも違和感を感じたり。
動物はダメなのに野菜は殺して食べても何とも思わないの?とか、魚は?微生物は?等々、その正論性にも偏りを感じられ、支持を得ている人程、そーゆー疑問や思考する事に蓋をしているように感じられた。
日本には戦前までは生野菜を食べる習慣はあまりなかった。
人類は農耕になる前、狩猟採集で生命を繋いで来た。
もちろん今の便利さやシステムで凄い!と思う事も多い。
ただ、消費する事も知恵や経験があれば、ある一旦ではバカバカしくもなる事も多くなった。
その判断基準も人それぞれで、時代と共に選択肢が物凄く増えた事には可能性を感じる1面もある。
例えば、朝ごはんの好みによって、和食と洋食が同じ食卓に並ぶ時代の考え方も人それぞれだと思う。
ただ、そうゆう選択を誘導される事が多すぎて、
その心理作用には人としての心と言うものが著しく欠損している気がしているし、もちろん、これは自分にも当てはまる。
短な事で言えば、犬を飼ってたり、出来るままに野菜を作ったり。
鶏を飼育して卵をもらって食べたり、卵が雛になって大きくなり、それがイタチに全滅させられたり。時にはカラスに持って行かれたり。
外来種で昔に持ち込まれたハクビシンやヌートリアは、古来からの在来種ではなく、市街地では見かけない日本の国鳥キジもオスは狩猟鳥獣。
畑を荒らすので、有害鳥獣となってる鹿や猪も殺されたくて人の畑を荒らす訳ではなく、罠や電作で警戒する事や、増え過ぎた種を捕獲する事は生態系を維持するには大事な事だったり。
何が正解なのかすでによー分かりません。(¯―¯٥)
ただ、自分はまだそーゆー生命の循環を知識として知ってるだけで、恥ずかしいながら頭でっかちで肉をもらうばっかりで狩猟は実際にやった事がない。
食べる事は生きる事。毎日使う、
「いただきます!」という言葉。
生命を...がその前につくんだと思ってます。
毎日365日同じ生活を送り、どこにも行かず、
どこで採れてどんな人の手を通ってきた食べ物なのかを理解した物しか口に入れない!
って事を徹底して生活してる人がいれば凄いと思うけど、自分にはこの時代に生きて、そんな事を選択出来る程の覚悟がありません。
かといって毒を食べる事や、そのシステムや考え方を批判して、ナチュラリストを気取って、他人が殺した肉をコッソリ食べながら美味しいとか言うクソ野郎にはなりたくないです。
生きる事に感謝する事。食べる事に感謝する事。
素直にそう出来る事を体感したい。
そう考えてると周りに起こる出来事が狩猟する事にシンクロして来た気がするので、自分なりの考えでこの先どーなるか全く分からんけどやってみようかとバタバタしとります。