歴史家河井継之助記念館館長 

稲川明雄先生を偲ぶ

 

令和元年12月14日(土)、長岡市の「長岡城ものがたり」の著者木島次郎先生から、稲川明雄先生のご訃報のお知らせをいただきました。

稲川明雄先生とは、昭和45年、長兄、歴史研究家、松宮吉見(昭和8年生、故人)と、長岡でお目にかかりました。

北越戦争で聚義隊(観音寺隊)を率いてに参戦した、筆者の高曾祖父、松宮雄次郎直秀(越後弥彦村、通称、観音寺久左衛門)の事でお会い致しました。

その後、兄は度々、長岡を訪れ稲川先生とは、お酒を酌み交わし歓談したと聞いております。

幕末における弥彦村、松宮家当主松宮雄次郎直秀は、北越戦争で、越後長岡藩家老河井継之助と密約を結び、1000名を超える聚義隊(観音寺隊)を率いて、会津征討の西軍を島原村(現・長岡市和島)に迎え討ちました。 

その際の勇猛果敢ぶりが戦略に長けた西軍方(官軍)を震え上がらせたと伝えられています。 

松宮雄次郎の弟、弥彦村走出の分家、松宮竜太郎は北越戦争で信濃川を輿で渡る時、観音寺隊の隊員名簿が発見され、分水町の西軍屯所で斬首され北国街道にさらされました。(天朝軍艦より)

 

兄のまとめた松宮雄次郎直秀の原稿は、長く稲川先生の手元にあり,執筆の計画でしたが、出版にはいたりませんでした。

昭和63年、新潟日報新聞デスクの中島欣也先生が拙宅にお出でになりました。中島欣也先生は、大正11年、燕三条の生まれ、陸軍航空士官学校から陸軍のパイロット特攻隊の生き残りです。

公職職追放後,昭和27年、新潟日報新聞のデスク、常務取締の時に執筆活動に入られました。戦場での戦闘場面に詳しく稲川先生の史料を引き継ぎ書かれたとのことでした。

平成5年に中島欣也著「戊辰任侠録・越後大侠客観音寺久左衛門」を発刊されました。

稲川先生は、長岡藩の武士の生き様を取り上げていますので、松宮雄次郎は書かれなかったと思いました。

平成30年、長岡城開府400年記念読本「長岡城ものがたり」出版記念祝賀会にご招待いただきました。筆者の高曾祖父松宮雄次郎直秀(通称、観音寺久左衛門)は、北越戦争で長岡藩と同盟を結び西軍と戦いました。「長岡城ものがたり」に登場します。

 

平成30年、「長岡城ものがたり」の発刊おり、、河井継之助記念館で稲川明雄先生にお目にかかりました。

50年ぶりでの再会でしたが、その折、暖かい歓迎を受けました。

北越戦争が話題になり、松宮雄次郎は、小地谷談判で河井継之助に同行したこと、会津藩と長岡藩の水原会議に与板藩家老松下源六郎に随行したこと、与板藩が鋒衝隊長、古屋作左衛門(幕府歩兵指南役頭取)や、副隊長今井信郎(京都見回組、坂本龍馬を斬った男)が与板藩に入り、軍用金を要求した折、松宮雄次郎が駆けつけ、談判に及び衝鋒隊を高田に向かわせたことなどが話題となりました。

「北越戦争では、片貝、妙法寺の戦い、猿ヶ馬場峠の戦い、寺泊沖の戦い、木之芽峠の戦い、赤谷方面の戦いなど、新たに発見された史料をもとに講演会で紹介しております」とのお話でした。

親しく、長時間にわたりご教示いただきました。

その折、稲川明雄先生著「越後戊辰戦争と加茂軍議」のご本をいただきました。

稲川明雄先生は長岡商業高校を卒業し、長岡市役所に勤務、長岡市立立図書館互尊文庫に勤務、市史編さん室長や市立中央図書館長などを歴任されまして、河井継之助記念館館長の職にありました。
  「日本人はどうあるべきか考えてほしい」と長岡の人たちに最期のメッセージを託していました。歴史に学ぶ真摯な姿勢を貫いた生涯でした。
越後長岡藩の歴史家稲川明雄先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

                                   令和元年12月15日

                                  福島県須賀川市北山寺147番地

                                 松宮久左衛門15代当主 松宮輝明

 

◎河井継之助記念館にて稲川明雄先生(右)、平成30年8月5日

 

◎河井継之助記念館、平成30年8月5日

 

 

 

◎河井継之助記念館(平成30年8月5日)