信長公は日本の文化社会規範を築いた

多くの戦国大名は、家臣団と会議をき話し合いを行い行動方針・政策を決定する「集団指導体制」を取っていたのに対し、信長公は徳川家康の意見により、何か行動を起こすと言うことは殆ど無く自分で判断し、自分で決めると言うワンマン経営だったようだ。

しかし、その発想と行動により、当時生きるか死ぬかの戦国時代において、革新的な改革を数多く実行している。1574年から大規模な街道整備を行っており、街道を広くまっすぐにする・川に橋を架ける・街道の関所のほか仏教が町の全体に縄張りを設定し囲い込んで、そこから出入りする者に通行税を徴収し、商いの制限など民衆に過酷な特権を強いるなどの掟を定めていた等を 、廃止するだけでなく街道に一定の間隔で飲食店を設定させている。

これにより街道における治安が向上し人の往来が容易となり商業が活性化し税収が増えた。今で言う高速道路を建設したのと同じ効果と言えよう。当然ながら、自分の軍の侵攻スピードも向上した。逆に敵軍の侵攻も早くなると言う欠点があるので、戦国大名の多くは道路整備はあまり行っておらず、街道を整備するのは、江戸時代に入ってから徳認諾唐が織田信長公の手本に行っている。

城下町では既存の独占販売権、不入権を持つ商工業者(市座・問屋など)を排除して自由取引市場をつくると言う「楽市金座」を実施し、自国の経済活性化を図った。今で言う規制緩和みたいなもので、現代の例えるとタバコ、酒、米、などの販売緩和をしどこでも販売できるようにした。通行税もないので領内での物流が盛んに成り、物資がたくん熱田津などから陸揚げされる事になり、その津での税金徴収が織田家の大きな収入となる。要するに一般的な領主が農民から年貢を中心とした収入だったのを、信長公は貿易津の運用でも莫大な収入を得るという、経済発展に伴う税収増加を図った。

更に織田家は、南蛮貿易を重視したので、信長公が堺を直轄にしたり、貿易相手国でもあるキリスト教の布教を許可したのも納得がいく話しだ。後に安土城を琵琶湖の横に築いたのも、琵琶湖の水軍と言う利権を最大限に活用・保護した意味もある。

桶狭間の戦いなど、軍事力が乏しい初期こそは、少ない軍勢しか動かせなかっが、基本的に敵を攻撃する際には常に敵を圧倒する大兵力を動員して攻撃する正攻法の作戦を取った。それだけの軍事力と経済力を持たないと出来ないこともあるが領土拡大した以降は、最初から無謀な戦いはしていない。

農業従事者を戦時の時だけ武士として用いる従来の兵士集招法では田植えの時期、稲刈りの時期には、軍事行動が制限された。戦国時代の戦闘集団の構成は、武士一名いたら3名は農兵という、場合が多かったのだ。

実際に農兵は領内各地から集合させるため、その集合だけで数日要する事となり、上杉謙信や武田信玄などは、夏や冬だけ戦いをすることが多く、田植え、稲刈りの時期になると、兵士が帰国したがる為、土気が上がらず苦悩している。しかし、信長公は農業に従事しない職業軍人を武士集団つまり専従の軍人を組織し城下町に住まわせた。最初の頃には武士と言えども、長男となると家督を継いでいる為、知行地に残って政治を行う必要もあり、呼び寄せられなかった。その為、手の空いている武家の次男を城下町に住まわせたのが始まりで、次男であった前田利家などよい例である。その後家督を継げない次男・3男などの武士だけでなく、兵士になりたいと希望する農民からも常時兵士化を図り、専門の軍隊として城下町に住まわせたようだ。これが農兵分離の先駆けである。

これより信長公は、平時には戦闘の訓練を行うなど兵士の育成が図れ、兵士の戦闘の練度・経験値も上がっただけでなく、迅速に軍事行動を開始できる即応集団として季節を問わず一年中動員できる常備即応軍を自らが獲得する軍制改革を行ったのだった。

また、日本の文化をも斬新な発想で大きく前進させた。

茶の湯文化は、信長公以前まだ茶道と言う言葉は認知されておらず、接客手段または、楽しみの茶の湯であったが、茶道を政治の手段に用い名物と称される茶道具を中心に、土地や金銭に代わる新たな価値基準を創作した。

元々信長公は、少年時代筆頭家老の平手政秀に茶の湯の手ほどきを受け、本格的に関わるようになるのは、永禄11年の上洛に際して信長公が茶の湯をたしなむと豪族や忠誠を誓う為武将などが茶の湯道具を献上した事から、家臣を統制するため「茶の湯御御正道」定め、たびたび茶の湯会を開催するとともに「茶頭」と言う職制を作って今井宗久・津田宗及・千利休らを 任じ信長公の配下で茶の湯全般を取り仕切らせた。

それから、東京オリンピックで海外に認知された日本のおもてなし文化は信長公が大きく発展構築させた重要文化である。

信長公は父信秀と斉藤道三は子の義龍との戦いで討ち死にし、その結果、両家の同盟関係は破綻し義龍は間もなく突然死して、息子の龍興が後を継いだ。信長公は桶狭間の戦いの後、美濃を攻略を開始6年後に井ノ口稲葉城を開場させ、長島に退去した龍興を、討つ事無く見逃している。

以降稲葉城を岐阜城と改名し好い様に改築、麓にはおもてなし御殿などの館、金華山の岩場を利用した 大きな庭、高層の茶の湯屋敷なども改構築し、特におもてなし御殿での膳料理の食器は、信長公の久々利にある御用窯などで焼かれていて、日本のおもてなし文化の原点である。

この信長公が構築させた、おもてなし文化が日本文化遺産第一号の候補に成りながら今だ検討中とはい、如何なる事か疑問になります。

それと、前回相撲の事を書きましたが、この文化も、元々は、神社での奉納として行われていた行事を、相撲大会として始めて行い民衆の娯楽としたのも信長公で、江戸時代になると民衆は自分好みの力士を贔屓し熱狂した。

その他に、伊勢神宮は信長公時代礎石だけが残る110年強も荒れ果てた状態だったのを三千元文と言う莫大な資金を出し、再構築させ、その時からお伊勢参りの文化も始まったと言う訳で、重要文化、日本の文化を再築、構築させた武将、人物であったのです。

(清須市、岐阜市の資料より抜粋)


◇久々利の信長公御用窯で焼かれた手塩皿◇

皿の欠けらを、発掘調査されていた中山直樹さんにお借りし、再現した物で、多くを小牧の信長公と為朝公の直系の子孫の方が開かれている、博物館に寄贈いたしました。