*世界でも例のない絵での予言*

私がまだ生まれていない終戦前後に、祖母・父母と出口王仁三郎の面会によく行ったそうで、出口王仁三郎の親族の方と一緒に面会をしたとき、震災の事を話し、一本松が残る、海岸ばたが危ない、老人と子供が逃げ遅れて気の毒だ、講堂の上に船が浮かぶ、火の海に成る等と言い、短冊に一本の松を書いたと言っていました。

その短冊は、親族の方がお受け取りになったそうで、旅館を経営されておられたのですが、うまく行かなくなり、止めようと資産を売却され、一部お世話になった方にあげられたとの事。その所有なされていた方の物が、回り回って、私の所に入って来たのです。それが、写真投稿の一本松の短冊なのです。

出口王仁三郎は、他にも色々と松の書いておりますが、東日本大震災の状況を書いた松は無い様です。短冊の上の方にわ、地震が起きた状況を金箔で散らし、尖った波が書かれていて、松の下には津波が書かれ、拇印で月を表しております。

この短冊が手に入った時、私は出口王仁三郎の自筆の物は一つも持っておりませんでしたので、素晴らしい短冊を皆さんに見て頂き、絵での才能を認識して もらおうと、コピーを撮り3人の方(小牧の方、豊田の方、瀬戸の方)それぞれに渡しました。

それから、2年経った3月11日に震災が起こったと言う訳なのです。それでこの年の夏、短冊を渡した小牧の方が「中日新聞に短冊と同じ状況の写真が載っている」との情報を聞き、私は岐阜新聞をとっていますので、その方に新聞の切り抜きを頂いた訳なのです。

この方は、博物館を開かれており、織田信長公と為朝公の直系の子孫に当たる方で、その武将の関係する物を飾っておられます。その展示物の中に為朝公の紅絵が有り、八丈島の為朝神社は、江戸時代疱瘡での生薬として、御神水と、この紅絵の護符とで回復したとされ、有難い神社として信仰されたとの事。為朝公の武威が疫病を退治したとも言われています。

そこで私は、震災で一本松が残った事は奇跡と言われており、一度どんな状況なのか見たくて岩手まで一晩泊で、植物に良いとされている、岩石の粒になった物を採石場から頂き、陸前高田市の仮の市役所に、一本松の根元に巻いて下さいと言い渡してまいりましたが、もう枯れようとしており、少し遅かったようです。

この時見た震災の状況は、大きなタンクがゴロゴロしており、子供たちは大変恐かったのだろうなあと、為朝公の紅絵のお守りを贈ろうと思い付いたのです。

ビニールで袋を製作し、箱も作り、また、大人の人には紅絵の湯呑みも作り、度々岩手、福島の避難されておられる方に届け、宅急便でも送りました。

その時に、お礼のお手紙、寄せ書き等を送って頂き、此方の小学生、中学生、住民の方々に、メッセージを書いて頂き送りましたので、その手紙等を披露し展示も致しました。

被災された方々に、少しでも心の支えに成ったのなら、幸いと思うのです。

また、出口王仁三郎は為朝公の絵を掛け軸に書いており、上部には川柳が書かれていて【鎮西八郎為朝よ 波の大島 弓矢で守らん】と、歌っていて、波の大島とは、震災で津波が襲った日本、為朝公の武威で守らんと成り、これも出口王仁三郎の予言なのです。

これの、守らんの実現を私が行ったと言う事は、この予言から私は今、現実に居ない出口王仁三郎に動かされたと成るのです。


◆左が、為朝公掛け軸の絵、中が震災の状況が書かれた短冊、右は中日新聞に載った一本松の写真、周りは被災地から届いた感謝の手紙、寄せ書き等の一部◆