武田軍・一向一揆衆の残虐行為

織田信長は武田信玄を残虐武将として大変恐れていたと言われている。元亀元年武田の勢力拡大で、臣の秋山虎繁が東濃に侵攻するも信長勢、光秀により撃退される。
(八王子神社縁起1570年)
武田信玄は徳川家康を攻撃し同時に臣の秋山虎繁に岩村城を攻略するよう命じたが、なかなか城は落ちなかった。
この時、明智の遠山家は景行の生害で終えている事から、城外ではかなりの攻防戦となり、武田勢による焼き討ちなどの容赦ない行為に、如何する事も出来なく城を明け渡す事とし、虎繁の 妻とされ落城した。
武田信玄の嫡男勝頼は岩村城域を武田勢の盤石の地域にするため明智・串原・高波・朝倉地域に武田勢としては再び攻め入り八王子神社他神社仏閣城を悉く焼き討ちとした。
(明智町史)
信長は武田の残虐の極みに心痛めていて、武田信玄が死んだことを知って嫡男信忠に岩村城攻めを命じ五ヶ月の攻防の末、虎繁に占領された岩村城は武田勝頼の支援が間に合わず陥落した。
その際投降したとされる虎繁は、容赦ない神社仏閣の焼き討ち等の無慈悲行為で民衆を恐怖に落とたし、妻にされたおつやの方も虎繁に味方し信長を裏切ったとして、長良川河原で処刑された。そして、武田勢の残党は各地の神社仏閣に逃げ込み、匿った神社仏閣は信長勢に残党諸共焼き討ちにされたが、残党を匿っていない神社仏閣は焼き討ちにしなかった。

各地で僧兵一向一揆衆は武士を巻き込み壮絶な檀家争いをしていて、加賀国では守護富樫氏を滅ぼし一向一揆衆本願寺派(僧兵はじめ一向一揆衆は女・子供を含めた農民宗徒が、畑をしながら畦に刀を隠していたほどの武装集団で宗派の違う女・子供の区別なく片っ端から首を切り惨殺をして町村全体を本願寺派に変える残虐な殺戮をしていた)が統治した。
また、尾張小木江城を守る織田信興と一向一揆衆とは、いい関係を保っていたはずの一向一揆衆が、突然大挙して尾張小木江城を攻囲し、織田信興を自害に追い込み落城した。
信長は石山本願寺救援の為挙兵して比叡山に滞在していた浅井・朝倉を攻囲していたが、弟を助ける為、講和を提携し助けに行くも時遅しであった。
信長が浅井長政に謀反されながら九死に一生を得た戦いで漸く織田家の出身地越前を政権下に置くことが出来た地域を家来の内紛と言う形で本願寺一向一揆衆に横取りされた。
元々本願寺とは1570年11月講和条約を結んでいたにもかかわらず、条約を破り加賀国の一向一揆衆に 支援され越前略奪に及んだ。これを機に弟が自害させられた小木城奪回と長嶋の戦いで一向一揆衆を根切りにした。
これらの信長の徹底した諫めで、以後、宗派間の争いでの女・子供含めた一向一揆は、容赦ない残虐な行為に及ぶ事はしなくなったと言える。

信長の戦略は激しいものではなく、優しい武将であったと言われているが、姉川の戦い、小谷城の戦い(1573年)で朝倉攻めの時思いも寄らぬ浅井長政の謀反で、僅か10人で逃げ延び九死に一生を得てから戦略が一変したと言われている。武田の美濃攻めの時が丁度境となり自分に刃向かうものは許さなくなった。しかし仏教の武装と一向一揆及び比叡山の残虐性に関しては、社会の秩序が乱れ統治しずらいと言うこともあって徹底抗戦を行っているが、宗教には飽くまでも寛容な立場を取っていた。
井沢元彦氏の天下布武と信長の謎から引用、信長の優しさの詳細は文中に書かれておられます是非一読願いたい。
この様に信長の素晴らしさが分かっている現状を悉く変えようとする動き、特にNHKの大河ドラマに見られます。どうする家康の相撲のシーンまた、家康と対したシーンなど、この時期の信長は和田惟一郎氏も言っておらる様に、優しさにあふれた時期てす。
この事を踏まえながら大河ドラマを見ると、ドラマストーリー制作の意図が、前回投降の枕塚事も踏まえわかってきます。

◇明智町の八王子神社◇