歴史上他に類を見ない悲恋とは

今から五年ほど前NHKで岐阜県岩村城主おつやの方が取り上げられました。また、岐阜新聞の「ノブたび」のシリーズで残る女城主伝説が取り上げられ、おつやの方は織田信長軍に城兵を皆殺しにされ、秋山虎繁とおつやの方を逆さ貼り付けに掛けた為、甥の信長を呪った。その場所が大将陣として観光地となっていると出ておりました。
確か、おつやの方は長良川で処刑になった事になっており、何故この様な伝えが残っているのか少し調べてみようと、何度か岩村に出向かいいろいろな方にお話を伺いました。

話しによると、信忠が岩村城を奪還した際、すでにお寺など、重要な建物は武田軍の焼き討ちで一切無くなっており、その跡を継いだ丹羽氏純が城内に病死が相い次いだ事から五仏寺を建て先代城主達を供養したが、お家騒動で国替えになり五仏寺は廃寺になった。その後、皆がわすれたと思われる時が経ち、暫く妙法寺と言うお寺が大将陣の下に建てられ、大将陣か此処に在ったと言うことは、此処で処刑されたのではないかと枕塚(おつやの方の首塚)が建てられ逆さ貼り付けされたと話しが一人歩きし、今まで言い伝えられてきたのだろうと地元の方達が言っておられました。歴史秘話ヒストリーのような編集は、岩村当たりでは言われてなく、近所の人も枕塚の有ること自体知らない人が殆どで、毎年おつやの方を偲んで皆で供養しているとは、NHKの番組担当者が「おつやの方が可哀想で、皆で供養していると言う事ですね」とNHKの創作の意のままに地元の人達を引っ掛け様とする言い方で聞いており。そもそも養子に来ていた信長の息子の五郎丸を、おつやの方と秋山虎繁が追い出した事を信長が怒ったわけで、その話しをしないのは間違っていると言っておられました。

また、おつやの方と秋山虎繁は仲睦まじく一人の子ができ。その名を、馬場六丈夫と言い信忠軍が攻め落とす前に、信州に逃がし、その後、村上水軍に入り活躍したと、子孫の作家さんが馬場六丈夫がおつやの方から渡されとされる観音様を番組で紹介していました。地元では、この事も「二人には子供は無いとしていたので、皆ビックリしている」と言われ、秋山虎繁は、もともと子供は無く三人の養子を貰っていたとされ、その中の一人を二人の間の子馬場六丈夫として、歴史上の人物に登場させたのではないかとも言われていた。

この事で、ある人の説では大夫と名前が付いているので、この方は歌舞伎役者ではないかとも言われてた。と言う事は、歌舞伎が物語を作り上げる際、英雄として作り上げた人物の役をしていた役者で、その子孫が作家さんと成り、創作された祖先が本当にいたと思い、馬場六丈夫の小説を書かれたのではないか。やはり歌舞伎の題目であれば、小道具の観音様も創作された物を代々伝え持っていたのではないかと思われるのです。

大将陣について、岩村の歴史研究をしておられる方々にも聞いたのですが、皆さんおつやの方が岐阜の河原で処刑された事は分かっているから、地元の歴史として大将陣跡の看板に逆さ貼り付けの事が書いて掲げてあるが、取らなくもいいじゃないかと言われていた。

やはり、この衝撃的記述の看板は信長公が残虐武将として定義され、おつやの方が、呪ったとストーリーされる原因の一つだと思われます。私は、 おつやの方は戦国時代でもあり現代と違い、愛だの恋だの悲恋物語だのとは考えていなくて、自分の不詳の運命でこの様に成ったと自覚し、観念して処刑されたと思います。

◇中央.おつやの方の枕塚.周は大将陣.城跡◇