無題

MACBETH:
I'll go no more:
I am afraid to think what I have done;
Look on't (=once) again I dare not.
LADY MACBETH:
Infirm of purpose!
Give me the daggers:
the sleeping and the dead
are but as pictures:
'tis the eye of childhood
that fears a painted devil.
自然界の生き物は死を恐れるのではなく、飢餓や敵を恐れる。
人間は死、そのものを恐れる。
悪魔や亡霊と言ったイメージが死を恐怖の絵に仕立て上げる。
悪霊や悪魔と言ったものは後でつけられた、不敬の輩のための脅し文句ではないか。
死者を敬わないと立派な人になれないとか、今いるコミュニティに支障をきたすとかいう理由。
死んだ人を敬う気持ちは、もとは今生きている先輩達を敬うことから来ていると思う。
それが嵩じて、死んだ後もなお、敬い続ける。
バチが当たるとか、祟られるという観念はどこの国にも存在するようで面白い。
それも先人に習わず、風習をおろそかにすることから起こる必然なのに、
超自然のせいにすることで、無知な者から畏怖を引き出す。
マクベス夫人が弱気になった夫に放った言葉は真に印象的で、
若い自分に大きな影響を与えた。
「絵に描いた悪魔を恐がるのは子どもの目である。」
恐怖は絵にあるのではなく、観る人の心の中にすでにある。
それが投影されるだけ。
夫人が夫から取り去ろうとしているのは恐怖ではなく、彼の良心だが、
我々が取り去らなければならないのは、実在しないものへの恐怖心。
すると本当に恐れるものが見えてくる。
虚栄や強欲はほとんどが安楽に暮らすために出てくる悪癖。
死ぬまでそれが増長し続ける。
気付いてみればそのために平和でいられたことがなかったり。
欺瞞や偽善も心の平和をもたらしはしない。
底にわだかまる恐怖がなくらならないから。

"Death on a Pale Horse" 聖書からの題材
死自体は恐ろしいものではない。
それにいたる無力感や恥辱、痛みの方が幾倍もおそろしい。
死というモノはエネルギーの化学変化だと思う。
肉体は何らかの化学変化で酸素と結合したり、炭素となったり。
消えたと思ったものは実は形を変え存在しているし、存在し続ける。
宇宙の大きさからいえばわずかな変化でも、
確実に昨日までの世界とは違っている。
霊の存在を信じ、姿も見えるという人を否定するわけではない。
自分は不感症で、失礼にも無視しているのかもしれない。
だから、死んだ後に残るのは魂といわれているものが、
実は死者の意志を受け継ぐ者の心にある思い出だと思ってしまう。
それを愛しく思い、側に置いておくのだろう。
命日や彼岸は、日々の生活や欲の中で忘れがちな尊敬の心を
思い出すきっかけを与えてくれるにすぎないのかもしれない。
人を敬う心が大事なのは、自分に対しても同じ尊敬を生むため。
人はどうでもいいと思う人に限って、実は自分の場合もないがしていることが多いんでは?
反対にいえば、自殺できた人は実は殺人の可能性もはらんでたということ。
命を軽んじる心と言うより、精神的な抑制を越えるなんらかの病気。
儀式や決まりごとにこだわるのは、僧服だけでは僧になれないのと同じこと。
しかし、そんな決まりのおかげで内容を思い出せるのがミソ。
馬子にも衣装で、形から実践できることもある。
そればかりが嵩じて中身のないものになることだけは、日々戒めたい。
昨日と違う今日と、今日とは違う明日からも、確実に死に近づいてゆく。
言わば生まれたときから決まっている負け戦。
でもそれを恐れるのではなく、
そのために萎縮して力を出し切れないことこそ、ほんとにコワイ。
煩悩を捨てることが悟りへの道と説いた仏教だけど、
それって言葉を変えてほとんどの宗教に息づく教え。
~してはいけない、という表現を~することを敬う、と代えるだけで
いろんな取捨選択が容易になる。それが心の平和。
人間だけでなくすべての命を敬い心を敬う。
たま~に思い出したいもんです。
仏像を彫る職人は、最後に目を彫り魂をこめると言う。
普段は人を見下ろし、俗世を超越してニヒルに見える仏像に、
そんな魂が見えた気がした昨日でした。
