母の誕生日

今度の日曜は母の誕生日です。
いつもアメリカの独立記念日の1日前。
だからNYにいるときも忘れずに電話した。
忘れるとかわいそうなので、花の注文もずいぶん前から済ませておく。
お礼を電話で言われて、注文してたことに気づくこともしばしば。
母は、言ってみればうちでは何にも出来ない人でした。
得意な料理もなく、没頭する趣味もない。
若い頃からの仕事を、結婚してからも続けていたからかもしれません。
ワシはたいがい祖父に預けられ、祖母が外出の時は一緒に連れて行かれました。
2人の姉が一緒のときもありましたが、ワシひとりということが多かったようです。
祖母はスラッと背が高いだけでなく、背筋もぴんとして当時から日本人離れしていたようです。
うちの家業が日本的なものだったので、
それを気にしてか、祖父の手伝いを影でするだけでした。
祖母が大変厳しい人で、奥ですべての采配をふるっていたことも、
母にはちと肩身が狭かったのかもしれません。
なんとなく疲れたような寂しい印象を子供心に受けていました。
4人姉妹の末っ子で、本来は甘やかされて、好きなことができた境遇。
仕事もやめるつもりだったのかもしれませんが、その詳細はわからず、
ただ朝出て行って、夜帰ってくるという日常。
主婦の大変さも幸せも、あまり味わってない気がします。
そんな母が1度だけ、小学校の父兄の授業参観日に来てくれたことがあります。
いつも祖父か祖母だったので、異常にうれしかった。
母はヒダのついた白いブラウスで、あとは忘れてしまいましたが、とてもお洒落に見えました。
ワシは母がまだいるか気になって授業中何度も後ろを振り返っていたと思います。
母はその後の先生との面談にも参加したようで、うれしそうに学校から帰ってきました。
「ほんとに優しい先生ね、中川先生って」
ワシがひそかに憧れていた先生のことを、母も気に入ったようです。
どんな受け答えをしたか覚えてませんが、きっと嬉し恥ずかしといったとこでしょう。
次の日の授業後、その中川先生がおいでおいでというようにワシを教卓のそばに呼び寄せました。
今でもそのクリッとした目と、白粉の匂いみたいのを覚えています。
ワシに内緒話でもするように顔を近づけて、囁きました。
「昨日、○○君のお母さんに会ってお話したのよ。ほんとに素晴らしい方ね。
私、○○君がどうしてそんなに素直で元気な子に育ったのか、分かった気がするわ」
ワシは真っ赤になって、うれしいより恥ずかしい気持ちでなんと言ったかこれまた覚えていません。
素直がいいことかどうか分からなかったけど、先生が母を褒めてくれたことがほんとにうれしくて、
誰にも言わずひとり誇らしい気持ちで下校したことを覚えています。
そんな母も、祖母が今で言う認知症になってから亡くなるまでの3年間は、
非常に献身的に尽くし、大変ながらもやっとつかんだ主婦の座で幸せそうにしていました。
母が唯一自慢して作ってくれたのはお赤飯。今でも大きなセイロを見ると思い出します。
もちろん他にもいろいろ作ったんでしょうが、トーストやヨーグルトを食べるといった
インスタントものが多かったような気がします。
大人になってから会うのは年にほんの2、3回。
ワシがコーヒーを淹れるのを楽しみにし、
海外で覚えたヘンな創作料理を作ってもうれしそうに食べてくれました。
花はどんなものでも好きだし、持って行けば大喜びでしたが、
誕生日に贈っていたのはいつも黄色いバラ。
夏だからすぐ枯れそうになるのを、大事に水を取り替えてたそうです。
花言葉は嫉妬なんだってよ、いいの?と訊くと、
「だってキレイじゃない?」と嬉しそうにしていました。
日本では、墓や仏壇にはバラを供えてはいけないそうです。
とげがあるからでしょうか。
だからワシが供える時はいつも棘を切ったものを置いてもらいます。
本人が好きだったものをあげられないなんて。
欧米では普通に飾る花です。
ドイツが好きだった母なら、そんなこと気にするはずもありません。
命日ではなく誕生日に墓参りする。
死に目にも会えなかったからそれがいい。
最近は花束ではなくアレンジにしています。
花を横たえて飾る外国の墓ではなく、墓石が家のような感じなので、
ちょこんと置くタイプが安定感があっていい感じです。
命日は棺の中の顔を思い出すから、誕生日に行くのかもしれません。
母のあの嬉しそうな顔が浮かんでくるようです。
オフクロ、72歳の誕生日、おめでとう。
