The Guy-Jin Eye in ガラパゴス?
今回は久しぶりに英語へのメンタルアプローチについて。
ぼくが3年前、日本へ帰ってきたときは、浦島太郎とは言いませんが、
いろいろな物事が新鮮に映りました。
観光で訪れた国のように、人も店も町も地下鉄も、実家さえとてもエスニックに
見えたのを覚えています。
物理的な距離だけでなく、脳内の距離もずいぶん隔立っていた感じでした。
タクシーのドアを無意識にバタンと手動で閉めてしまうのはしょっちゅう。
ビルのドアを開けて、あとから来る人のために押さえていたら、
何、この人へんなひと、という感じですり抜けて行かれます。
確かにみんなバンバン開けてはそのまま、開けてはそのまま。
エレベータで会った人に「今日は~」しても、同じ目。
なんか差し出した握手をムシされたような感じがしたものです。
(NYとかでは、パンツずり下げて歩いてるような子まで、ドア押さえて待っててくれます)
わしってなんかヘンかな、と周りに聞くと
ちょっと堂々としすぎ、楽しそう過ぎ、とのこと。
これはあれだ、あのバイリンGALたちが、パパッと言葉を変えるようには、
自分が日本仕様の応対ができていないんだと、気づきました。
正確な速度で回ってる縄跳びに、マイペースで飛び込んで行ったように、
何なの、あんた、ということなのかもしれません。
外見が外人なら、遠いところからでもその警告が見えるので、
警戒警報、警戒警報、というサイレンが周りの人に聞こえるはず。
同じ日本人に見えるから、違うことをして不意をついたんだろう。
そういうことでした。
人口密度の多いところでは、多かれ少なかれ、こうした同じ視線が必要です。
人と人がすれ違ったり、車がすれ違ったりするのに、一定のルールがなければ
衝突したり、怪我させることになります。
押したりぶつかったりでも気にしないのが上海でしょうか(?)
それを防ぐために暗黙のルールをもっとスマートに進化させているのが日本。
すぐそばにいてもいないように振舞うのは、双方のプライバシーを守るため。
こうした行動は、日本独自の精密さで洗練されていて、まるで使いこなせない
くらい進化したケータイ電話のようです。
とかく文化的に欧米は進んでるようなイメージがあり、また、
英語ができないことでコンプレックスを抱く人は多いと思いますが、
じつは、この国にいる外国人の多くが、始めにこの縄跳びコンプレックスを経験したはず。
戸惑ったり、自信がなかったのは、実は彼らのほうでしょう。
何をしても笑われて(本当は戸惑ってるか、笑顔で迎えられているんですが)、
何を言おうとしてもわかってもらえず(だめだめワタシエイゴワカリマセン)
こうするときは、ほんとはこう。ここでは拍手して、そこでは黙る。
あなたは上でワタシは下。わかってなくても、うなづいておく。
欧米が文化的に進んでるなんてとんでもない。外国でのほとんどの経験でも、
日本でこれだけ鍛えられていれば、こと礼儀で困ることなどありませんでした。
ただちょっとそれがスポイルされて帰ってきただけ。
パンプスはいてた女性が、平らな靴に慣れてしまったように、
背伸びしてるみんなより、地面に近くなってしまったような。
いつのまにか、もう少し人間くさいやり取りに慣れてしまい、
ちょっとヘンでも個性だし、英語なまってても移民だし、ですむ。
意見があれば口にして、うれしいときには二カッと笑ってしまう。
もちろん他人の中にいても、です。
今、人や経済や文化のグローバル化が叫ばれ、日本のガラパゴス化を指摘する人も増えているようです。
北朝鮮の軍事訓練や、北京オリンピックの開会式の人海戦術など、遠く及ばないほど、
日本人の礼儀や思想は統制が取れていて、島国ならではの進化が見られます。
しかし、どんなに進化して、洗練されていようと、そこまで他の人に来てもらうのは、
山の上から、登っておいで、こっちの水は甘いよ、といってるようなものかもしれません。
やはりみんなが集まるオアシスまで降りていって、上品に後ろで声かけを待つのではなく、
自分も進んで仲間に入り、濁った水をいっしょに飲まないと、やっていけない気もします。
個人主義と集団主義。プライバシーと社会性。帝王学と忠誠心。
教える姿勢も、教わることにもいろいろ違いはあり、むずかしいギャップもあります。
感謝ひとつでも、
英語ではお互い同等で、相手の好意・能力を正当に評価するAppreciate
日本では目上に対するように感謝します。または互いに礼。
優美で趣のあるありがとう。
家庭ではお手伝いさんの風習も少なくなり、今では企業を雇うようになったのも
もとはそういった上下関係がわずらわしくなったからかもしれません。
家に他人が入ることにより、心づけを心配したり、気分を損ねたりするのがいやで。
ハウスクリーニングに、ケイタリング、便利屋さんに引越し屋さんなら気楽。
欧米のようにフィリピーノや他のアジア人を使いこなすなんてとても。
彼らは知性もあり、権利も平等なので、雇主と上下関係を結んでいるわけでは
ありません。報酬を得ているだけです。
雇っている側も、ビジネスライクに仕事を言いつけます。
万一の時の信頼性以外は、企業と何らかわらないかもしれません。
組織内でももちろん、上司と部下、社長と社員、忠誠心もあるにはありますが、
その前に自分や家族の利益のために働く。
だからこそ一所懸命になりますし、必然的に会社にも有益です。
社員同士が仲良しというのもいいんですが、それが有益とは限りません。
利益を上げるために働く環境を整えるという点で、有効なだけです。
仲良くするために競争を抑えたら、企業にはマイナスになるでしょう。
ある程度何でもいえる風通し、そういった雰囲気を模索しつつ、
上昇志向を後押しし、競争させる企業が多くなっています。
互いがぶつからないための日本式の洗練さは、両刃の剣となるかもしれません。
ぼくが英語を話すときは、日本語でのときより、細やかさにおいて、ずいぶん変わります。
皆さんもそうかと思いますが、言葉の端々まで気にせず、すこし気楽になります。
英語が母国語じゃないからというのもあるかもしれませんが、話す心の姿勢も変わるからかも。
役職や年齢に関係なく、人間としての上下を感じず、だから媚も甘えも期待されずに話せるから
だと思います。
こんな言葉を思い出しました。
The truth is not so often appreciated, but it will save a lot of time and incorrrect words by telling it.
真実は往々にして正しく評価されないもの。しかし、真実を言うことによって、多くの時間と不正確な言葉を節約できる。
英語や他の外国語を習得することは、こんな風に、考え方も変えてしまうのかもしれません。
またそうしないと、なかなか実践的な表現が出てこないのも事実です。
なるべく双方のイイとこ取りをしたいものです。