②ABC 殺人事件 アガサクリスティの心理学
ABC殺人事件
地名や被害者の名前の頭文字がABCの順番に起こる連続殺人。
この本は始めから終わりまでポアロと犯人の心理的なゲームになっています。
といっても、昨今見るようなCIAやFBIと犯人の駆け引きのような緊迫感はありません。
ただ後から出た多くの推理小説にヒントを与えた意味で、クリスティの代表作とも言われています。
ここでは前半からポアロによる犯人のプロファイリングがあります。
「相手は暗闇にひそんでいて、いっこう出てくる気配もない。しかし事件の性質からいって、
彼は自分の性格に光を与えないわけにはいかなくなる。・・・心のうちに劣等意識を抱きながら
大人になった男・・・自己を主張し、他人の注意をひきたいという衝動・・・」
現在の連続殺人の定説を、このときすでに説明しているだけでなく、
ネット上でのいじめや犯罪など、いわゆる Anonymous crime (無差別的・匿名的な犯罪)
にも通じるような犯人像が描かれています。
匿名性(= Anonymity)に走る人たちのコンプレックスや臆病さというのは、
自己顕示欲(= self assertiveness)の増大を招きがちです。
この作品では、こうした推理が、実は読者をミスリードする伏線であったり、その後で暴かれる
犯人像の伏線にもなるというのが、クリスティの本当の狙いです。
ポアロはその後の犯人の心理にも言及しています。
「だんだん自惚れていって不注意になってきます。自分はいかに頭がよく、他の者がどんなに
馬鹿か誇張して考え始めます(= self-aggrandizing)」
よって、こうした匿名犯罪は、始めは小さな悪事がエスカレートし、最悪捕まったり、よくても自分の
行動範囲を狭めてしまったりして、原因となった劣等感を昇華できなくなるケースにつながります。
一方、前回と同じように、ポアロが人間心理をサラっと指摘している箇所もあります。
「死というものはね、マドモアゼル、不幸なことに偏見を作り上げます。・・・よい面だけを見るという偏見。
・・・妹はとっても明るいいい子で・・・若い娘が死ねば、決まってこういうことしか言わないものです」
そう、死者の悪口を言うな、というのは、思いやりというより、世界共通の宗教的畏怖の表れかもしれません。
残念ながら、被害者の生前の性格を美化することは、犯人像の割り出しには役立ちません。
また、ポアロはここでも「直感」に対する潜在意識のスピーチをします。
「・・・私たちがしばしば口にする直感とは、実は論理的な推理や経験に基づく印象なのです。・・・
(絵画や家具の)その道のエキスパートが、、ちょっと変だなと感じる時は、・・・いちいち綿密に調べる
必要はありません。彼の経験はそれを必要としないのです。明確な印象なのです」
僕たちもたまに、この人ヘン、とかそりが合わない、と感じるときがありますが、それは過去にあった
経験から、近似値を見つけていることが多いんですね。
経験が少ない若いうちにこれに縛られると、交友範囲や学ぶ機会が少なくなるかもしれません。
さてこの作品の大まかなテーマで、トリックの元になっている心理的要因のヒントは、
木を見て森を見ず Can't see the forest for the trees.
森を見て木を見ず Can't see the trees for the forest.
これに尽きるでしょう。
どちらも心におくことが大切で、片方だけでは意味がありませんね。
では今回の要点を……
①匿名性はコンプレックスの現れである
匿名性による自由度は、結果的に自分の世界を狭めることにもつながることがある。
②大きな絵に目を奪われ細部をもらす、また細部に奪われ大局を見ない、
このどちらも人間の陥りやすい癖である
ワンポイント英単語
Assertive (形)主張の強い、はきはきした
Aggrandize (動)誇張する、増大する
Anonymous (形)匿名の 名詞は Anonymity 匿名性
Anonymousity という単語が欧米でもけっこう使われていますが、造語のようです。