こんにちは、カナコです。
今日も私の海外奮闘記つづきます♡
第1話はこちら↓
こんなに暴露しちゃっていいのか
若干心配ですが、これが私の人生!
お楽しみくださーい
さて、彼が
モザンビークからアメリカの大学院に移る
一か月の間に
無事結婚式を終えた私たち。
結婚はしたものの、
3年目の遠距離生活
が始まりました。
私はと言えば、
このタイミングで転職を決意。
栃木から出て、
六本木ヒルズでインターネット企業
に就職しました。
もっと若い人たちとがりがり働いて
自分の力を試してみたかったんです。
年収は1.5倍になり
住まいはヒルズまで徒歩圏内の白金。
深夜まで働くこともざらではなく
通勤はタクシー。
大変だったけれど、
とてもエキサイティングで
学びに満ちた日々でした。
そして転職して1年が経ったころ。
夫がアメリカから一時帰国中に
妊娠が発覚!
ばりばり働いて、仕事も波に乗ってきた頃。
上司は産休を勧めてくれました。
しかし、私は迷います。
日本で産んで一人で育てる?
アメリカで産んで日本に戻ってくる??
夫は今後もきっと海外だろうな…
迷いに迷ったあげく、
私は日本の選択肢を捨てました。
こどもは夫と育てたい。
これからは私も海外で生きよう!!
そして安定期に入ったころ
私はアメリカ・ボストンへと飛び立ち、
その後無事に娘を出産しました。
しかーし!
試練はここから待ち受けていた
育児がこんなに大変だとは知らなかった私達。
両家の親も皆働いていて
ヘルプを頼まなかったこともあり
本当に夫婦2人っきりで
悪戦苦闘の日々が始まりました。
その上、夫は大学院2年目で
普段の授業に加えて
修士論文や就職活動もしなくてはならない。
くっついてるとよく寝る娘を乗せて、修論書く夫。
更に、
私たちは一銭の収入もない。
大学院の学費は、年数百万。
どんどん減っていく貯金。
私たちは、州が定める低所得者層に入り、
無料で卵や牛乳、パンなど
母親の栄養になる食料がもらえる
クーポンが毎月配られ、
それを頼りに生活していました。
体力的にも精神的にも
この時期が一番大変だったのですが、
人の温かさに救われたのもこの時期です。
こんな私たちを見かねて、
同じ大学の寮に住む人たちが
ご飯を持ってきてくれたり、
様子を見に遊びに来てくれたり。
お金はなかったけれど、
温かい友達はたくさんいました。
娘に特別望むことはないけれど
一つ望むとしたら
ボストンで私たちが受け取ったような
優しさをもつ子に
育ってほしいなと思います。
そして、日は過ぎ
晴れて夫は大学院卒業します。
しかし、なかなか就職先が見つからない!!
夫の興味範囲は狭い。
唯一見つかったのは・・・
なんとネパールでのインターンシップ。
え?
インターンシップ???
ネパール???
10か月の娘を連れて???
まじかー!!!
つづく。