本屋に行ったらクナト姫の物語を見つけ

このクナト姫は出雲の始まりではないかと

思っているのですが、


今日も飛騨の口碑(こうひ)の続きです。

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さて、ヒルメムチ様(天照大神)が

お生まれになり

このまま放っておくと

外から人がやってきて

滅ぼされることが見透せたので


ヒルメムチ様(天照大神)は

ご自分の娘3人に

九州に行って様子を見てくるように

言われました。


この3人の娘というのは

多紀理姫命(タキリヒメノミコト)

市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)

多岐津姫命(タギツヒメノミコト)

のちの宗像三女神

です。


九州に行くには途中船に乗らなければ

ならないのですが


大淡上方様の息子の

山麓住日高日抱奇力命
ヤマノフモトズミヒダカヒダキ
クシキチカラノミコト

の子孫に

舟造命(フナツクリノミコト)と

呼ばれる方がおられ

先を見越して船団を作って

おられました。


その子孫が猿田彦命(サルタヒコノミコト)

です。


猿田彦命が船を準備していましたので

ヒルメムチ様(天照大神)

の娘3人(以降三姫と呼びます)は

その船に乗り

南へ下り

今の福岡県の東海岸あたりに上陸しました。


そこから

一族大勢を家来に持っている

コオロギという人々と仲良くしました。


この人たちは手も足も長いので

コオロギといいました。

そしてこの人たちは

今にも攻められるかもしれないので

高天原から大勢来て

助けて欲しいといったそうです。


今の熊本・長崎・太宰府

あの辺だと思われるのですが

朝鮮から来た人々や南の方から来た人たちが

子を産んで数を増やしていて

様子を調べてみると攻めて来る気配なので

早く飛騨へ知らせなければとなったのですが

知らせるには8年もかかりました。



一方、飛騨では三姫が帰るのを

待っていると遅くなるので

高山の安川原で

大勢のものが集まって

いろいろ相談しました。


ちなみに安川原ですが


高山に皆が集まるのに

都合がよく広い場所があり


高山の川が山にどーんとぶつかる所の

上の方を上川原

下のほうを下川原

真ん中を安川原と言って

大勢集まることのできる

広い川原があって

安らかに相談できるところだから

安川原と言ったのです。


宮村(高山市一之宮町)に幹部だけが

集まって話すときは

宮村の安川原に集まったので

今でも宮村役場裏の川原を

安川原と呼ぶ(昭和10年頃の話)そうです。


さて、その、話し合いでは

思兼命 オモイカネノミコトという

賢い男が相談をまとめました。


九州の恐ろしい災いの元をたつためには

強い若者を大勢集めて

男も女も九州へいかねばならぬ


飛騨は山奥なので

日本中を治めるには

もっと良いところへ

都を移したほうがよいのではないか


大和(奈良)の辺りに

移したらよいのではないか


日本のあちらこちらに分家から始まった

小さな国があるが

総本家の飛騨に従わせ

ひとつにまとめたほうが良いのではないか

などの相談がまとまりました。


そしてヒルメムチ様(天照大神)の子や

孫の方々の

大河内 オオコウチ

茨木 イバラキ

田中直 タナカノアタエ

額田 ヌカタ

山代 ヤマシロ

饒速日命 ニギハヤヒノミコト

が、それぞれ大勢の若者と

それぞれの妻たちを連れて

今の滋賀・京都・大阪・奈良・神戸・三重

あのあたりを開くために

三姫の帰りを待たずして

飛騨を降りて行かれました。


そして大和に都が開けるように

土地を開いて準備をされたのです。

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宗像三女神

神話では契約(うけひ)によって

天照大神が産みだしたことになっていますが

飛騨の口碑では

三姫とも天照大神の実の子だと

言われています。


次回は

邇々芸命(ニニギノミコト)が

九州に派遣されるのお話に

なりそうです。




参考図書

『明らかにされた神武以前』
山本建造著 福来出版