僕の住む地域には、今や有名になってしまった桜の巨木がある。

その時期になると、この桜を見にイロイロな地名のナンバーをつけたクルマと、数え切れない人の群れが、まるで津波のように押し寄せて来るのである。

臨時駐車場も出現し、観光バスがせまいスペースに自らを押し込もうと、ひしめき合っている。桜は逃げはしないと思うけれど、何かに憑りつかれたように、我先に走り出す人もいる。

僕はその桜の本来の姿を知っている。
訪れる人もない3月のある日曜日に、僕はそこを訪れた。
一足先に咲き誇る菜の花に囲まれたそれは、まだ冬のたたずまいのままだった。

それはまるで子供達(菜の花)に囲まれ、幸福な死を迎えようとする老婆の姿のように僕には思えた。

しかし、4月ともなればそれは、まるで別の肉体と人格を与えられように、白い花房と瑞々しい葉をたわわに身につけると、完璧な一枚の絵となって、その周囲に絢爛たる春を創造するのだ。

 

ヤマザクラに美徳と言うものがるならば、誰に愛でられることもなく咲き誇り、人知れず散っていく、その清らかさと潔さが本来のそれではないかと思うのだが、一体どうしたことか、桜花の時期、樹齢数百年のこの樹の周りでは、かくも熱狂的・偏執的なヒトとクルマの輪舞(ロンド)が毎年繰り返されているのである。

別にこの古木に罪はないのだけれど、多くの人々の心をあやつり、尽きぬ衝動を与え続けるその花陰には、ひょっとすると忌むべき傲慢不遜が隠されているのかも知れない。

桜の花の下には屍体が埋まっている。何故ってあんなに桜の花が見事に咲くはずがないのだから・・・と、言ったのは誰だったろうか。

確かに、この見事な桜の木の根元には、少なくとも5~6人は眠っていそうな気がする。