物心ついた頃から僕の人生を仄暗くやがて暗澹ならしめていた疾患、その忌まわしい心臓の移植手術を受けて数年が経った。
僕はすっかり健康を取り戻し、その上体力にも自信を持つようになった頃、ふと不思議に気づいた。

子供の頃から二十年以上も食べることができなかった生のトマトが大好きになったのだ。初夏から夏にかけて冷えたトマトを丸かじりすることが、毎朝のルーティンになっていた。極端に苦手だった人付き合いも何の苦もなくなり、その上次から次へと人脈が広がっていき、その中で今の彼女と出会うこともできたのだった。ただこれらは、先天性疾患によって閉ざされていた我が人生の扉がただ単に開いただけであり、本来生きるべき運命に回帰しただけ、と言うのが僕なりの分析結果だった。

 

僕は彼女と結婚を意識するようになっていた。
そんなある日、一つの医学記事が僕の目に入ってきた。

脳以外の臓器にも記憶は宿る。
例えば肺や肝臓などおよそ思考や記憶とは関係のないと思われていた臓器にも、移植を受けた者に対して生前の個人の記憶や嗜好、行動さえも影響を与えうる、と言うものだった。しかし、幸福を目の前にして、僕はそれを深く考える事はなかった。

意を決してプロポーズすることを決めたその日、僕は彼女を夕食に誘った。楽しく会食が進み、メインディッシュが終わり、デザートがサービスされた頃、僕は彼女に指輪と共にプロポーズした。答えはもちろんイエス。小躍りしそうな気持ちを抑えながら、何気なく僕は彼女に尋ねた。

「ねぇ、きみは一体全体、僕のどこが気に入ってくれたんだい?」

しばらく思考を巡らしてから、彼女は少しテレながら無邪気に応えた。


「美味しそうに毎朝トマトをかじる姿かな?」

2006年の1曲である。

畠山美由紀が歌っている。

誰もが若い頃の記憶を胸に秘めてオトナになっていく。
それは、今隣りにいる優しいヒトにさえ語る事はかなわない。

生きている限り、ずっと一人で抱えていかねばならない想い。
現実を知り始めた頃、夢の終わりを悟り始めた頃に感じた肌の温もり。
脆弱な青い心を、茫漠とした社会の冷気を、互いの毛布で暖め合った存在。

今はもういないその誰かとの優しく切ないトーチは、
今でも僕達の人生の夜道を、照らし出してくれている。


aikoは時を止めるのがうまい。

それは、現在から過去を振り返ってのものだが、ときめきのほんの一瞬をまるで一枚のスナップ写真のように色鮮やかに切り取り奏でるのである。

私事、重なるような記憶は薄いが、それでもその時代のありがちな出来事が等身大の中に描かれていることに共感を覚える。それは見知らぬ町で偶然見かけた木造の廃校舎に言い知れぬ懐かしさを感じるのに似ている。

彼女の曲には、彼女と同時代に生きている(僕の方がはるかに年上だが)ことの福音を感じるものが多いが、これもそんな一曲なのである。