冬のように寒い朝、青空に誘われて30分ほど歩いて整体へ行った。
先生に身体を調整してもらいながら、お金の話になった。わたしはお金に対する感覚が鈍い。自分の提供している内容と価格のバランスがよくないことは自覚しているが、どれが適正なのかわからないのだ。どこかで「お金なんてただの紙切れ」という概念が消えない。それはお金を受け取れないなど俗にいうお金のブロックとは違う気がする。自己肯定感が低いと言われることもあるが、自己肯定感とお金の関係もピンとこないのだ。
「お金ってね、生活を円滑にするための道具なんですよ」先生が話し出す。
「紙切れってこと?」と思わず口を挟んでしまった。
「道具はね、高価で便利なものがいい道具な訳ではなくて、安価だから悪いこともない。自分に見合ったものを使いこなして、丁寧に扱うことで役に立つでしょう?お金も同じでね、自分に見合った使いかたをすることで替えのきかない大事な道具になるんだよ」
モヤモヤとしていたものが、すこんと音を立てて落ちた気がした。
「先生天才!」心の声が口から漏れる。
目を瞑っていたのに先生の苦笑いする顔が見えた気がした。

帰り間際、頭を触りながら先生がつぶやく。
「松果体が活性化してる。効率の悪い頭の使いかたしてるねー」
「カードを引いてるとき、手と頭しか使っていないんだろね。松果体でキャッチしたものを一度心と言うかハートに入れたほうがいい。じゃないと暴走して気がふれるよ」と眉間と胸を交互に指差した。
わたし、サイコパス診断100点やったんですよーと笑いながら話を濁してその場を後にした。

帰り道、歩きながら考える。
心ってなんだろう。
ハートってチャクラのこと?
感情だろうか。
感情ってなんだろう。嫌いとか好きとかそういう類のものが感情なんだろうか。

お金が紙切れに見えるように、感情に浸ることが苦手だ。映画を観ることも小説を読むのもいつの間にか苦手になった。mgramのサイコパス診断100点はネタでしかないが、感情に振り回されることをひどく嫌う一面が反映されているのかもしれない。
自分では人並みに感情を感じているつもりだ。猫が死んだら悲しいし、旦那氏と喧嘩して落ち込むことだってある。ただ大人になり親になると瞬間湯沸かし器のように子どもに怒りが沸くことはあっても、些細な感情の波に意識を向けることが少なくなってしまった。
そういえば昔から悲しみや怒りは、自分以外の誰かに向けて現れる自己表現のようなものであり、時には父や母の気を引くために怒り泣くものだと感じていた。感情に没頭している自分に違和感があるのだ。
感情はわたし自身ではない。そして整体の先生の言う【心】とは感情のことではないような気がする。

では心とはなんなのだろう。
心の本を何冊か読んだことがあるが、内容は忘れてしまった。
お世話になっている老師は【心】にはいくつか意味があるとお話しされていたと記憶している。例えば「心に従う」という一文にある心とは、感情でも直感でもない。ましてや思考でもなく、頭の中というよりも胸や肚から聞こえる声のように思う。一歩踏み出したいとか嫌な感じがするとか、言葉になる前の感覚というほうがしっくりする。加えて仏教的にはダルマ(法)のことも【心】と表現する場合があるという。ダルマ(法)も様々な意味があるようだが、「真理」のこともダルマ(法)と呼ぶ。安直に心=ダルマ(法) =真理と言えないことは百も承知だが、心というのは真理に近づくために必要なものなのかもしれない。
整体の先生の言う【心】が老師のお話しされていた【心】と同じならば自分にもわかる気がする。カードを引いたり山に行ったりして受け取った情報を【心】に降ろしてから言葉にする。感情とは別のアプローチとして【心】の存在を感じてみようと思う。


先日伺った熱田神宮
とても気の良い素敵な神社でした✨