ども、試験も何もない期間の大学の図書館はガラガラで何だか寂しい私です。みんなもうちょっと図書館利用しようよ…。
私が聖書に関心を持ち始めたのは高校に通っていた頃だと思います。
聖書に関心を持つ以前はギリシア神話に興味を持っていました(今でも好きですが)。NHKの深夜番組で人間講座という番組のアンコール放送がされており、「私のギリシャ神話」というタイトルで作家の阿刀田高氏がナビゲーターみたいなことをしていて、それを偶然見たのがきっかけです。阿刀田氏はもともと推理小説家ですが、神話や聖書に関する本も執筆しています。阿刀田氏の小説家の観点から書かれたギリシア神話の本がとても面白くて、またギリシア神話自体の寓意性に惹かれました。
その後、作家の曾野綾子氏が同じ番組で「現代に生きる聖書」というタイトルの講座をしていました。聖書をどのように現代に生かすのだろうか?と期待を抱いて見ていました。ギリシア神話とは少し違いますが、聖書も寓意性に富んでいて、人間の思想の根幹をなすのだろうと思いました。曾野氏は聖書の解釈は無限だと言っています。人が宗教についてどのように語り、どのように思おうと、それは自由であるというのがキリスト教の姿勢であると。
私はたぶん無宗教者です。たぶんと言ったのは、自分が死ぬ(死んだ)時にはきっと仏教のどこかの宗派に属するのだろうと思うからです。しかし、それは私の意図するところではありません。
きっと、神など存在しません。それは、人間の形をした神が存在しないという意味です。ただ、キリスト教が、そして聖書がどのような解釈も可能なのであれば、自分なりの神というものを想像しても何ら問題はないでしょう。
私なりの神の捉え方はこうです。
人間の形で存在するのではなく、空気のようなもの。そして、手の届かない遠くにいるのではなく、いつでもそばにいて見守ってくれているもしくは自分の心の中に存在するもの。
つまり、神は自分とは別の存在などではなく、自分の良心であると思っています。
ちょっと話が横道に逸れそうなのでこれぐらいにしておきます。とにかく、私はその番組を見てから聖書に関心を持つようになりました。でもクリスチャンになろうとかそんなことは全く思いません。あくまでも自分が物事を考えるときに必要な知識の一部としかとらえていません。
今日は大学の図書館で聖書をちょっとだけ読んでいました。私が以前考えさせられた一節を紹介したいと思います。
新約聖書 ルカによる福音書 6・27-36
しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
私はまだこのような人間にはなれません。しかし、聖書は私のような無知な人間こそが読むに値するものであると考えた時、このような人間になれなかったとしても、この一節を知っているということは、知らないことよりましなのだと思います。
それではまた。
私が聖書に関心を持ち始めたのは高校に通っていた頃だと思います。
聖書に関心を持つ以前はギリシア神話に興味を持っていました(今でも好きですが)。NHKの深夜番組で人間講座という番組のアンコール放送がされており、「私のギリシャ神話」というタイトルで作家の阿刀田高氏がナビゲーターみたいなことをしていて、それを偶然見たのがきっかけです。阿刀田氏はもともと推理小説家ですが、神話や聖書に関する本も執筆しています。阿刀田氏の小説家の観点から書かれたギリシア神話の本がとても面白くて、またギリシア神話自体の寓意性に惹かれました。
その後、作家の曾野綾子氏が同じ番組で「現代に生きる聖書」というタイトルの講座をしていました。聖書をどのように現代に生かすのだろうか?と期待を抱いて見ていました。ギリシア神話とは少し違いますが、聖書も寓意性に富んでいて、人間の思想の根幹をなすのだろうと思いました。曾野氏は聖書の解釈は無限だと言っています。人が宗教についてどのように語り、どのように思おうと、それは自由であるというのがキリスト教の姿勢であると。
私はたぶん無宗教者です。たぶんと言ったのは、自分が死ぬ(死んだ)時にはきっと仏教のどこかの宗派に属するのだろうと思うからです。しかし、それは私の意図するところではありません。
きっと、神など存在しません。それは、人間の形をした神が存在しないという意味です。ただ、キリスト教が、そして聖書がどのような解釈も可能なのであれば、自分なりの神というものを想像しても何ら問題はないでしょう。
私なりの神の捉え方はこうです。
人間の形で存在するのではなく、空気のようなもの。そして、手の届かない遠くにいるのではなく、いつでもそばにいて見守ってくれているもしくは自分の心の中に存在するもの。
つまり、神は自分とは別の存在などではなく、自分の良心であると思っています。
ちょっと話が横道に逸れそうなのでこれぐらいにしておきます。とにかく、私はその番組を見てから聖書に関心を持つようになりました。でもクリスチャンになろうとかそんなことは全く思いません。あくまでも自分が物事を考えるときに必要な知識の一部としかとらえていません。
今日は大学の図書館で聖書をちょっとだけ読んでいました。私が以前考えさせられた一節を紹介したいと思います。
新約聖書 ルカによる福音書 6・27-36
しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
私はまだこのような人間にはなれません。しかし、聖書は私のような無知な人間こそが読むに値するものであると考えた時、このような人間になれなかったとしても、この一節を知っているということは、知らないことよりましなのだと思います。
それではまた。