和歌山には何度となく訪問、観仏してきました。熊野三山、真言宗高野山、修験道吉野山、有田川沿いの明恵上人などキーワードが豊富で、奈良、京都、滋賀に続く文化財宝庫の源泉となっている。
和歌山県博「仏像と神像へのまなざし―守り伝える人々のいとなみ―」展に行って来ました。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/ae/b7/j/o0279040014633916045.jpg?caw=800)
明治の神仏分離の嵐からの回復、そして知識人による文化財調査、修理、保護、さらには信仰深い土着の人々による継承が続く中、困ったことに最近では盗難が相次ぎ、それが困難となっていく現状があるようです。
和歌山博の取り組みが脚光を浴び、3Dプリンタを利用してのお身代わり仏像、クラウドファンディングによる修理など実際に行われている事案が紹介された。
それらの過程では、お寺、地域住民、文化財保護担当者の三者間の綿密なコンセンサスが重要で、その努力には改めて敬服する次第です。また、そこから新しい仏像や事実が発見されたようです。
目的の和歌山博は南海電鉄・和歌山市駅から南へ約1㎞程にあるが、丁度昼時の12時なので、食堂を探しながら歩いて向かうことにする。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/70/38/j/o0500035014633916046.jpg?caw=800)
隣のレストランが出店している「テイクアウト専門、丼300円」。
ついつい買ってしまった。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/a3/dc/j/o0640042814633916049.jpg?caw=800)
和歌山博手前の左手に和歌山城がお堀越しに見えます。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/f1/df/j/o0640040414633916050.jpg?caw=800)
少し東側からの眺め。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/f2/79/j/o0640040214633916052.jpg?caw=800)
建築家・黒川紀章さんの遺作。いつ見ても、お城と建造物がマツチする景色とともに食事を楽しむ。地元の小学生の見学者が次々に訪れてゆく。小さい頃から、本物の文化財に触れるのは大切なことだ。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/ea/98/j/o0500034914633916054.jpg?caw=800)
唐揚げ丼。少しヘビーだが完食。
少し休憩後、いよいよ入館。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/c6/3e/j/o0500023414633916058.jpg?caw=800)
65才以上はいつ来ても、無料だそうだ。すごい得した気分で入館できる。
和歌山博、今回初めての試みとして、展示資料は撮影可とし(フラッシュ及び三脚等の使用は禁止))、非営利的な個人利用であればSNSでの発信もOKです。
仏像写真等は図録と小生の慣れないスマホ撮影から掲載しました。参観者で混み合う環境ではなかったので、撮影シャッター音も気にならず、観仏&撮影を楽しめました。特に、彫刻細部の写真を後日、楽しむことができます。
解説文は全面的に図録を掲載さしていただきました。悪しからず。
図録の次の章立てに沿って説明する。
第1章 評価と保護のまなざし―明治時代の宝物保護―
①神仏分離と仏像・神像の移動 ②臨時全国宝物取調局による社寺の宝物鑑査
③古社寺保存法による国宝指定と修理
第2章 祈りと継承のまなざし-仏像と神像は地域とともに-
第3章 共感と支援のまなざし-仏像と神像を未来へ伝える-
第1章 評価と保護のまなざしー明治時代の宝物保護
①神仏分離と仏像・神像の移動
明治元年(1868)、政府は神道の国教化を目指して神仏分離令(神仏判然令)を発布し、それまでの寺院と神社の信仰の習合状態を分離するため、仏像を神体とするところは改めさせ、本地仏をあらわした懸仏や仏具の社頭からの排除を命じました。こうした強制的な神仏混淆禁止の通達によって、全国で仏像や神像の安置場所が変更され、地域によっては仏教関係資料の破壊(廃仏毀釈)にまでつながるなど、大きな混乱が生じました。
和歌山県でも神仏分離に伴って仏像や神像が神社境内より多数移動しています。
はじめにそうした事例の一部を確認し、近代における仏像・神像へのまなざしの転換点を確認します。
天部形立像 木造 像高68.9㎝ 平安時代後期(11世紀頃)
春日神社(海南市) 初公開
春日神社本殿床下の土間に安置されて伝来してきた。
平成30年に初めて調査が行われ、現在、和歌山博に寄託。神仏分離までは金剛院神宮寺、本地堂、大師堂などがあって、その場に安置されていたことが想定され、地域の神仏分離の実像を示すものである。
男神坐像・女神坐像・童子形神坐像7軀
木造 像高16.6~20.5㎝ 平安時代後期(12世紀頃)
三谷薬師堂(かつらぎ町)和歌山県指定文化財
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/78/aa/j/o0500022914633916064.jpg?caw=800)
男神像の3軀を示す。冠を着けて袍(わたいれ)をまとい両手を袖から出して座る。
三谷薬師堂は三谷地区の村堂(兼集会所)で同地区の鎮守社である丹生酒殿神社にかって安置された神像群である蓋然性が高い。
神仏分離にあたっては、このように彫像として表された神像もまた、仏教的なものとして移動を余儀なくされた事例があることをうかがえる。
薬師如来坐像 木造 像高53.4㎝ 平安時代後期(12世紀頃)
阿弥陀寺(かつらぎ町) 町指定文化財
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/6a/ce/j/o0349040014633916068.jpg?caw=800)
平安時代後期の仏像様式(定朝様式)に忠実に則った造像である。
本像は地区の産土社である八幡神社の境内に建つ村堂が明治4年以降に神仏分離によって撤去されるにあたり、阿弥陀寺に移して安置されて今日まで継承されてきたもので、現在檀上の中央に安置されていることも、村のシンボルともいうべき本尊としての記憶を引き継いでいるともいえそうである。
②臨時全国宝物取調局による社寺の宝物鑑査
神仏分離や土着の信仰の排除は、西欧化の風潮とも相まって伝統文化の否定や古器旧物の流出につながり、政府は明治4年(1871)古器旧物保存方の太政官布告を行い、翌年に正倉院や社寺等の資料調査(壬申検査)、そして明治21年(1888)には宮内省に臨時全国宝物取調局を設置して、寺社伝来資料の評価と把握に努めました。
臨時全国宝物取調局では岡倉天心(1863~1913)らが全国で21万5091点の宝物鑑査を行って台帳登録し、優れた資料には監査状を発行しました。和歌山県はこの宝物鑑査が集中的に行われた地域で、300点以上に鑑査状が発行されています。その一端を紹介します。
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/b3/ad/j/o0500035014633916070.jpg?caw=800)
鑑査状 明治24年(1891)熊野速玉大社(新宮市)蔵の5点中の
夫須美大神坐像鑑査状
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/5d/43/j/o0500018214633916072.jpg?caw=800)
鑑査状 明治24年(1891)吉祥寺(有田川町)蔵の7点中の
薬師如来坐像鑑査状
岡倉天心、三田出身の男爵・九鬼隆一の名が見られます。フェノロサを含めた彼らの情熱的な活躍が文化財の保護と公開が進んだ。
③古社寺保存法による国宝指定と修理
明治30年(1897)に古社寺保存法が施行されると、臨時全国宝物取調局による宝物監査の成果も踏まえ、その年の暮れに全国で約180件が国宝に指定され、和歌山県でも34件が指定されました。「歴史の証徴」「美術の模範」として国宝指定し補助を行う同法のあり方は、現在の文化財保護制度にも引き継がれています。
近代の訪れは、仏像や神像を守り伝える上において、歴史と美術という新たなまなざし をもたらしたのです。翌年には同法に基づく初めての国宝修理が全国に先駆けて和歌山県で行われました。その状況の一端を、彫刻修理を担当した新納忠之介(1869~1954)の足跡をたどりながら確認します。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/91/20/j/o0500026014633916073.jpg?caw=800)
古社寺保存法・国宝修繕請負契約書写
明治時代 道成寺(旧日高川町)蔵
木彫部は新納忠之助が請け負ったこと、高村光雲、川崎千虎が指揮監督をすることとなっていた。参考までに、高村光雲の晩年作である高野山檀上伽藍・金堂の本尊・阿閦如来坐像が80年振りに公開され拝観させていただいた記憶が懐かしい。
十一面観音立像 木造 像高120.1㎝ 南北朝時代
正平8年(1353) 広利寺(有田市)蔵 重文
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/dd/74/j/o0204040014633916076.jpg?caw=800)
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/e2/05/j/o0280040014633916079.jpg?caw=800)
腕を4本あらわした類例の少ない四臂十一面観音立像
明治31年(1898)に、古社寺保存法に基づく国宝修理が新納忠之助によって行われた際、本像もその対象となった。この時、像内に納められていた納入品として、巻子状の経巻8巻が取り出され、像内に銘文があることも確認された。新納はその銘文を筆録し、翌明治32年1月にその経典を納めるための箱を作製した際に、蓋裏にそれを記録している。それによると、本像は河内国の西方寺に安置されたもので、仏師は頼円らであった。
箱内部底面の墨書には「胎内の銘文を再見しがたいがための後の鑑として」その銘記を記録したという動機と経緯を記している。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/68/e7/j/o0500033314633916083.jpg?caw=800)
その表面仕上げは、錆地に漆下地を施し、丹地を作って金泥を塗り、大ぶりの鳳凰や牡丹、雲、宝珠、海波や雷文、鳳凰円文、蓮華唐草文などを盛り上げ彩色であらわし、また、精緻な截金による四ツ目菱入変わり七宝繋ぎ文や麻葉繋ぎ文などで地文様を埋め尽くす。台座蓮弁にも、宝珠文を盛り上げ彩色であらわし豪華である。
地蔵菩薩坐像 木造 像高78.5㎝ 平安時代前期(9世紀)
歓喜寺(有田川町)蔵 重文
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/49/32/j/o0356040014633916086.jpg?caw=800)
針葉樹の一木から彫成し、彩色仕上げとする。肩幅が広く堂々とした重量感あふれる造形で、左右の袖などでは弾力のある深く柔らかな衣紋と、縞立った衣紋を交えてリズミカルで、平安時代前期の仏像に見られる特徴を示す。
像底には、新納忠之助によって修理された墨書が残る。
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/78/90/j/o0218040014633916090.jpg?caw=800)
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/61/7d/j/o0500030814633916094.jpg?caw=800)
また、胎内納入地蔵菩薩(鎌倉前期、像高3.3㎝ 重文)は発見の経緯から、村の宝として厨子・袋・二重箱に入れて住民持ち回りで管理されていた。
また、その箱には、地蔵菩薩坐像の古写真や歓喜寺宛帝国博物館鑑査課書簡などが納められていた。
第2章 祈りと継承のまなざし-仏像と神像は地域とともに-
近代におけるまなざしの転換を経て、なおそれでも仏像や神像は、寺院や神社、そして地域住民の尽力により、信仰の対象として、また心の拠り所として、数百年、千年の昔と変わらぬ思いで、大切に守り伝えられています。
善美を尽くして造られた仏像や神像は、その姿や形に時代や地域の特徴を示すとともに、作善として関わり続けてきた地域の人々の信仰のいとなみ、そして継承のいとなみをも今日に伝える、歴史の重要な証拠といえるでしょう。
造形的特徴と伝来の歴史に着目しながら、魅力あふれる和歌山の仏像や神像の数々を、その形の変遷をたどりつつ紹介します。
十一面観音立像 木造 像高113.8㎝ 奈良時代(8世紀)
円満寺(有田市)蔵 重文
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/a5/c6/j/o0151040014633916098.jpg?caw=800)
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/39/9e/j/o0300040014633916101.jpg?caw=800)
頭上面などを別材にするほかは、頭部と体部や腕部、あるいは冠繪や天衣、瓔珞などそのほとんどをカヤかと見られる針葉樹の一木から彫成している。肉身部の金箔は後補で、当初は素木で仕上げた、代用材による檀像彫刻の貴重な残存事例である。
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/8d/34/j/o0500037514633916104.jpg?caw=800)
胸飾 中央に置いたロゼットから四方に蕨手唐草を伸ばし、その先端を連珠でつなぎ、さらにその先端に垂飾を付けていて、これが東大寺や唐招提寺の天平彫刻との類似性があることが指摘されている。
十一面観音立像 木造 像高141.7㎝ 平安時代前期(9~10世紀)
名杭観音講(印南町)蔵 和歌山県指定文化財
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/8c/77/j/o0500034914633916107.jpg?caw=800)
注目の展覧会初出陳の像で、会場中央の独立ケースに一際目立ちます。
展覧会ポスターにも、アップ写真が掲載される。
印南町名抗区の山道脇に位置する小堂において、観音講の人々によって守り伝えられてきた像だ。平成30年夏の台風で観音堂が被災、屋根が中破したことを契機として、保存・継承のためにできることを検討し、今回の出陳に至った。
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/0e/39/j/o0174040014633916110.jpg?caw=800)
![イメージ 26](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/8d/cc/j/o0280040014633916114.jpg?caw=800)
頭体から左上膊を含んで蓮肉までをヒノキの一材で彫出し、内刳を施さない一木彫像。特徴的な舌状の垂髪は、慈光円福院十一面観音像(9世紀末~10世紀初頭)に近い形で柔らかい。垂髪の先が広がらず肩の天衣に束のまま同化している。
紀ノ川下流と貴志川沿線~(2) 十一面観音像・慈光円福院http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/28981498.htmlを参照下さい。
![イメージ 27](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/58/15/j/o0500035014633916119.jpg?caw=800)
膝下の裙と両膝の間で折り返す衣文は深く、両腕から垂れ下がってきた天衣との空間がソフトで優しい。素晴らしい空間である。
本像の制作背景としては、名抗に隣接する熊野九十九王子の一つである切目王子の存在が注目される。この地は熊野参詣の重要拠点とされ、宇多上皇が御幸した際、「切尾湊」より乗船が記されるなど、天皇家との御幸を挙げることもできるだろう。
![イメージ 39](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/40/cd/j/o2172305214633916129.jpg?caw=800)
高野明神立像 木造 像高58.6㎝ 平安時代
槙尾山明神社(九度山町)蔵 初公開
![イメージ 28](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/df/a2/j/o0178040014633916138.jpg?caw=800)
![イメージ 29](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/d6/51/j/o0400028414633916143.jpg?caw=800)
九度山町九度山の槇尾山明神社本殿に安置されてきた神像。槇尾山明神社は高野明神を主たる祭神としており、本像がその神体に相当する。
神を立った姿で表すことは決して一般的なものではないが、高野明神像については狩人姿で表れたことが知られ、立ち姿の画像もあり、立像との親和性が高い。
着衣が腹前で前掛け状に垂れるのは袍ではなく狩衣と理解される。日本最古の高野明神像。
地域内で合意形成され、防犯対策及び良好な環境での保管のため平成31年3月に和歌山博に寄託された。今後、お身代わりのご神体を作製して安置する予定である。
観音菩薩立像 木造 像高71.8㎝ 鎌倉時代(12~13世紀)
霊現寺(和歌山市)蔵 初公開
![イメージ 30](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/2e/53/j/o0500043714633916147.jpg?caw=800)
![イメージ 40](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/5e/c5/j/o0279040014633916153.jpg?caw=800)
(図録裏面掲載写真から)
![イメージ 31](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/de/b8/j/o0172040014633916156.jpg?caw=800)
![イメージ 32](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/e3/e4/j/o0234040014633916160.jpg?caw=800)
髻を高く結い天冠台を表す。銅製の垂髪が肩に広がる。光背は頭光部中央に蓮華を配して放射光を二三条あらわし、左右には蓮台上の円相と雲気を配する。洗練された作風で、豪華な銅製飾りも全て鎌倉時代初期のもの。
現在、蓮華を執った観音菩薩像として伝わるが、弥勒菩薩像の可能性も示す。
アメリカ・ボストン美術館の快慶作の弥勒菩薩立像や、奈良県・東大寺の建久年間ごろ造像の弥勒菩薩立像などと表現が近い。運慶や快慶のごく周辺の奈良仏師によって造像されたものとみられる新発見の仏像。
霊現寺には近年寄進されたもので、それ以前の伝来情報については現時点では知られない。尊名も含め今後の検討課題である。
不動明王立像 木造 像高97.3㎝ 鎌倉~南北朝時代(14世紀)
個人蔵
![イメージ 33](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/77/a9/j/o0219040014633916165.jpg?caw=800)
![イメージ 34](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/e4/4f/j/o0500039414633916170.jpg?caw=800)
台座光背を含めると2m近い大きさの像。
頭部がやや大きめであるが均整のとれた体型で、風貌にも迫真性があり、裙の賑やかな衣の重なりや裙裾の厚手の表現などやや時代の下がる要素もある。
本像は昭和33年(1958)に和歌山城天守閣が再建された際にその巨大な銅製鯱を作った金具師の谷口勝次郎により入手され、その後親族によって継承されてきた。平成30年に谷口家で安置している本像の取り扱いのあり方についての相談があり、和歌山博で寄託を受け、継承いくこととなる。
第3章 共感と支援のまなざし
-仏像と神像を未来へ伝える-
仏像や神像を守り伝えてきた各地の集落においては、過疎化や高齢化による担い手の減少により、寺社や堂舎、小祠の維持が困難になっているところが増加しています。現在、そうした地域を狙った仏像や神像の盗難被害が多発していて、緊急の防犯対策とともに、これからの継承へのあり方を考える必要に迫られています。
悉皆的な文化財調査、クラウドファンディングによる仏像修理、最新技術を活用した「お身代わり仏像」の作製、そして守り伝えた人々への敬意と応援。地域と人々の歴史を伝える仏像と神像を、多くの人がその大切さに共感し、支援する、未来への新たなまなざしを考えます。
随身坐像 木造 像高76.4㎝(左方像) 75.4㎝(右方像)
平安時代後期(12世紀) 鞆淵八幡神社(紀の川市)蔵
![イメージ 35](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/de/41/j/o0400035614633916177.jpg?caw=800)
紀の川市鞆渕地区は、かって石清水八幡宮領鞆渕荘の故地で、荘鎮守の鞆渕八幡神社は現在も地域の産土社として厚く信仰される。
左方像は2001年に開催された『歴史のなかの“ともぶち” -鞆渕八幡と鞆渕荘-』の事前調査で確認されたが、右方像は、すでに社外に流出していたが、2009年所在が確認され、その後無事に神社によって取り戻された。
片膝を付いた随身像の最古例で、平安時代に造像された一対の随身像と、やはり一具の造像である獅子・狛犬、そして八幡三神像(県指定)が完存していて、日本における神社の古い祭祀形態をしのばせるものと評価される。
自然に包まれ、境内には本殿、大日堂などが建ち並ぶ神仏習合が色濃く残るそうで、一度は訪問したいものである。
観音菩薩立像 木造 像高69.3㎝ 平安時代(12世紀)
下湯川観音堂(有田川町) 蔵
![イメージ 36](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/3c/01/j/o0500034914633916184.jpg?caw=800)
実物(左)とお身代わり仏像(右)
有田川町の最奥部、下湯川地区に所在する下湯川観音堂の本尊像。
下湯川観音堂の文化財調査は平成28年11月に初めて行われ、重要な多数の資料が確認され、以後の管理が課題となった。その後企画展で出陳され、和歌山博で寄託を受けることとなった。
![イメージ 37](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/24/28/j/o0281040014633916188.jpg?caw=800)
寄託を受けた本尊である本像は信仰の場の変容を最小限に留めるため、県立和歌山工業高等学校と和歌山大学教育学部との協力により、3Dプリンター製のお身代わり仏像を作製し、平成29年7月28日に奉納を行っている。
尚、ロビーにおいて、「お身代わり」仏像を活用した文化財防犯対策についてというポスター掲示があり、その写真を示しました。
それによると、平成30年度までに13ヶ所26体を現地への安置を行ったそうだ。
![イメージ 38](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/16/teravist/15/9e/j/o0800068014633916196.jpg?caw=800)
上記以外にも、熊野速玉神社・国宝神像、浄教寺・大日如来坐像、歓喜寺・十一面観音立像、法福寺の諸像、吉祥寺諸像などについても触れたかったが割愛した。
著名な国宝神像・重文像から地域の人にしか知られていなかった仏像・神像が数多く展示されて、久し振りに観仏に力が入り、感激した時間であった。和歌山博の学芸員先生方や地元の方々など関係者に感謝する次第です。あらためて、和歌山の仏像、神像の奥深さを認識するとともに、今後も新たな発見が健全に行われることを期待しております。