尾道市にある国宝・浄土寺で、ご本尊・十一面観音像は、通常非公開で33年に一度、開帳されました。今回、浄土寺・平成の大修理の完了落慶、並びに開創1400年を記念して、特別に、春秋2期間、ご開帳され、秋のご開帳期間は、2016918()1120()です。本日、訪問しました。
 
浄土寺の見所は、ご本尊・十一面観音像は勿論ですが、その他にも宝物館の仏像群が沢山ありますし、国宝の多宝塔をはじめとする建築物、歴史の刻まれた石造物などがあります。 
車で来ると、駐車場が境内東にあり、国宝・多宝塔のすぐ側に停めれて都合よいが、改めて、正面の山門から訪問することをお勧めします。出来るなら更に、JR山陽本線を越えて南の2号線から参詣するのがベストであろう。
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山門で後ろを振り返ると眼下に広がっている尾道水道の海。
対岸には造船所が見える。
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(向島から見た浄土寺全体、右手には海龍寺が見える) 
浄土寺境内と海との狭い間をJR線の鉄道と国道2号線が走る。

「海の見える寺」である。瀬戸内海は古代以来、都の玄関である摂津の難波と海外の窓口である筑紫の博多を結ぶ、最も重要な海路であったから、沿岸には、早くから風待ちや物資補給のための船泊りがあった。
しかしながら、港町としての形を整えるのは、荘園物資の運搬と、対宋・対明・対鮮などという海外貿易が活発となった、鎌倉・室町時代になってからからのことである。港津に人々が集まると、仏教僧侶にとっもそこは、民衆布教のための新たな好地となってくる。
尾道が実質的に発展したのは、その北20㎞にある世羅郡甲山の一帯が、高野山大塔領備後国大田庄となり、その外港としての倉敷地(保管しておく場所で保管料が入る)になって以来のことである。
尚、世羅郡には、現在も龍華寺、文裁寺(旧報恩寺)といった古刹があり、平安仏の十一面観音像などが祀られます。広島・龍華寺の十一面観音様http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/21565055.htmlを参照下さい。
尾道は海路と陸路の旧西国街道が通り、旧出雲街道の出発地でもあった。経済的に繫栄した町で、信仰心もさることながら、経済力があったからこそ、町内には寺社が溢れ、立派な伽藍が造られたということのようです。

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山門 重文 南北朝時代に再建されたもの 
国重文・浄土寺山門。側面に足利氏の引両紋が刻まれている。この寺に足利尊氏により五重塔・利生塔が建立されたが現存せず。その場所は筒湯小学校(2000年に廃校)といい、現在も浄土寺の北西に接して校舎や運動場が残る。

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境内から見た山門。海の見えるお寺、山門である。

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(日本古美術全集19山陰・山陽の古寺から引用)
かっては西大寺末の律宗であったが、明暦年中(165558)泉涌寺末となり、近年真言宗に転じた。
寺は聖徳太子の創立と伝えるが、当寺の根本史料である嘉元4(1306)の「定証起請文」(重文)には太子創立の事はみえず、太子信仰が盛んになってから造られた説であろう。
「定証起請文」によれば、鎌倉時代後期に真言律宗系の僧で西大寺・叡尊の弟子・定証が入寺した時には本堂(阿弥陀堂)、五重塔、多宝塔などがあり、これらは光阿弥陀仏が造立あるいは修復したもので、定証はこれに金堂(観音堂)、食堂、僧坊を建て、嘉元4年西大寺信空を請じて供養したとある。光阿弥陀仏は石造宝塔(重文、弘安元年)にみえる沙弥光阿弥陀仏であろう。彼は本尊の修造も行っているから、寺の創立は平安時代にさかのぼるものと考えられる。
これらの堂塔は正中2(1325)に全焼したが、ただちに復興に着手、嘉暦2(1327)に観音堂(現本堂)ができ、元徳元年(1329)に多宝塔、貞和元年(1345)阿弥陀堂が成り、貞和3年らは五重塔が備後の利生塔として建立中であった。
現在の伽藍はこの時のもので、江戸初期に焼失した五重塔以外はそのまま残っている。
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山門を入ると正面に本堂、その右手に阿弥陀堂と多宝塔が建つ。これらの中世仏教建築群に対し、境内西側には方丈、庫裏及び客殿など、僧の生活空間である近世建築群があり、庭園や茶室(露滴庵)もある。

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国宝・多宝塔側(境内東面)からみた境内伽藍

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浄土寺本堂 国宝、鎌倉時代嘉暦二年(1327) 
本瓦葺 桁行五間・梁間五間 軒反りが美しい中世の建物
「二つ引き両」の紋の入った提灯が下がっています。これは、足利家の家紋であると同時に浄土寺の寺紋でもあります。

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浄土寺本堂平面図
浄土寺本堂の内部は、前より二間を礼拝の為の外陣、後ろより三間のうち両端間を脇陣、その間を仏像安置の為の内陣とする。中世密教仏堂のセオリー通り、内陣と外陣の間を格子戸と菱欄間によって仕切っており、仏の空間と俗の空間を厳密に区別している。
厨子は本堂建立と同時期のものであり、本堂の附けたりとして国宝に指定されている。

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(左は浄土寺パンフから)
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(浄土寺パンフから)
木造十一面観音立像 重文 檜材、一木造 像高1.6m 広島県教育委員会HP
浄土寺本堂の本尊で、定証起請文にある「本尊聖徳太子御作等身皆金色十一面観音像」と記されているのは,おそらく本像のことであろう。
檜材のこの像は、右手は施無畏の印を、左手に開敷蓮華をさした花瓶(後補)をもつ。面相は豊満で、体躯は肥大充実し、刀法も鋭く、全身を金色の寂光に包まれた端厳な尊容の像である。平安時代も初期に近い頃(9世紀)のすぐれた作である。

制作年代については、一般には平安後期の作とされているようです。

五木寛が「百寺巡礼」の中で、浄土寺を訪れ、本尊は拝観できなかったが厨子前に佇んだ一節を紹介する。
イメージ 12「目を閉じると、蓮如が十一面観音と対面したときの情景がぼんやりと浮かんでくる。その百数十年には、足利尊氏もこの十一面観音を参拝している。歴史の流れというものが、体のなかをすうっと通り過ぎていく実感があった。」

左脇陣の奥に、南無仏太子像が置かれる。うっかりすると見落としそうである。普段は宝物館に展示される。

木造聖徳太子立像(南無仏太子像)
重文 寄木造 玉眼 彩色 像高68cm 
胎内頭部に墨書銘があり、南北朝時代、建武5年(1337)の作。
三歳の尊像と言われる。胎内から出た三尊仏の印仏には、本寺重修に尽力した尾道の商人である道蓮、道性の名も見られ、本寺と太子信仰の関係も察せられる貴重な作品である。
なお、作者の院勢は,孝養像の作者院憲と同じく京都院派の著名な仏師である。
下半身の衣装は赤い袴。襞が鋭い彫刻で、上半身の穏やかさと組合わせがいい。

須弥壇の後から回廊に出ると、そのまま回廊続きで東側に建つ阿弥陀堂に入れます。
 
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阿弥陀堂 重文、南北朝時代 貞和元年 1345年の再建
本堂,多塔宝(国宝)が再建された後に建てられたものと思われる。
優れた和様建築と評価されている。

イメージ 14木造阿弥陀如来坐像 寄木造 漆箔 像高88cm
膝張72cm 県指定 広島県教育委員会HP

浄土寺阿弥陀堂の本尊で,紙本墨書定証起請文(重文)に記されている像と推定され、脇侍の観音菩薩・勢至菩薩とともに内陣に安置されている。
寺伝では定朝作と伝えるが,定朝様を忠実に踏襲した仏師による平安時代末期(12世紀)の作と考えられる。

須弥壇の後ろには、雄渾なタッチで書かれた「南無阿弥陀仏」という六字名号が掲げられているが、残念ながら見落としました。浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれたそうです。浄土真宗では名号は本尊であり、信仰の対象となっている。『なんでもあり』の浄土寺の一端を垣間見る。

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阿弥陀坐像の向かって右手の脇侍・観音菩薩像の絵葉書を購入しました。
仏像の詳細は不明ですが、この雰囲気はすばらしい。

本堂、阿弥陀堂を拝観した後、宝物館を見学しました。
宝 物 館
館内に入ると、正面壁の二階から垂れ下がる大きな涅槃像があります。江戸中期の八相涅槃図でした。
重文・八相涅槃図(文永11(1274) 174.5cm、133.5cm)が有名で、展示されてなく残念であった。涅槃図を中心に左右下三辺を16区画に分けて描いた仏伝図の一つでもある。
軸木に文永十11(1274)粉河寺僧随覚房云々の記があり、浄土寺が高野山、西大寺の末寺であることからも明恵上人「涅槃講式」と深い関係が推測されるものです。

二階に上がると、仏像群がガラスケース内に所狭しと陳列されています。
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左:文殊菩薩座像 右:聖徳太子像

浄土寺には南北朝時代の造像年墨書銘がある重文・聖徳太子三像(南無太子像、孝養像、摂政像)があます。一体は先程の本堂で拝観し、残2体がここにあります。
浄土寺のパンフから三体が並んだ写真がありましたので、掲載しました。像高が比較できます。
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:摂政像 手:南無仏太子像 右:孝養像

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(観仏日々帖から借用)
(左):木造聖徳太子立像(開山堂安置) 
   寄木造、玉眼、彩色、左手に柄香炉、右手に笏を持つ。像高135
   南北朝時代、暦応2年(1339)の作で、胎内に墨書銘がある。
   「摂政像」と称せられるもの。
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金泥の紺色牡丹唐花文様地に彩色された袈裟には大きな輪宝などが厚みのある塗料で描き込まれ、美しい。

(右):木造聖徳太子立像(開山堂安置)
   寄木造、玉眼、彩色、髪をみづらに結い、柄香炉を持つ。 像高94cm
   鎌倉時代の乾元2年(1303),沙弥定性が息子の死後にその菩提を弔うために
   作らせた像といわれる。京の院派の仏師・院憲が作った。
   「孝養像」と称されるもの。胎内頭部に「乾元二年法印院憲作」という墨書
   がある。定証起請文に「聖徳太子十六歳御躰,京都仏師印憲作」というのは
   本像と思われる。
   文献と銘文が照応する遺物は珍しい。鎌倉時代末期(14世紀前半)院派の佳
   作である。

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木造文殊菩薩座像 寄木造、彩色 像高63cm 県指定
背に頭光身光を負い、右手に宝剣、左手に経巻を持ち、獅子の背上の蓮華座に半跏坐している。金鈴をまとい眼光爛々たる獅子は、文殊菩薩に比べて大ぶりに造られ、南北朝時代(13331392)の作とされる。なお、本像を納める厨子の床板に、南都津波居(つばい、椿井)仏所で造像され、永和4(1378)74日に安置された旨の墨書銘が見られる。

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向かって右手に大日如来坐像胎蔵界附光背、左手には大日如来坐像金剛界附台座などが見られます。いずれも県指定で、平安時代の作。

宝物館を出て、続いて、境内の石造物を見学しました。

中世の尾道の繁栄には石工技術が一役買っています。尾道は地質学的に花崗岩が多く、良質の石材にも恵まれていたこともあり、尾道の寺社を巡ると、鳥居、灯篭、手水鉢、狛犬、石仏など至る所に石造物を見かけます。江戸時代には北前船が帰り荷として尾道の石材を船底に積み込まれ、日本海沿岸に運ばれ、現在でも北陸地方には尾道石工の石造物が見られるそうです。
そういえば、若狭・小浜の歴史博物館でも逆パターンで高浜町・「日引石」が小浜を出る大型船のバラスとして使用され、石塔が青森から鹿児島まで分布して発見されるということをけんがくしました。
中世石造遺品は、叡尊・西大寺流の影響があったと思われる。同じ尾道市の生口島に建つ重文・光明坊十三重層塔は西大寺・忍性の造立、大和の石工・心阿の制作として有名である。

境内の南側に安置され、背後の尾道水道などが望まれ、抜群のローケーションである。
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宝篋印塔 伝尊氏塔 重文 南北朝時代 花崗岩 高さ 191
鎌倉時代後期の作品にみられる力強さはないが、均整のとれた美しい姿を見せ、中国地方の宝篋印塔の代表作といわれる。
笠部分の段型は下二段、上六段、隅飾は二弧輪郭付で内に蓮座上の月輪を陽刻し、月輪に八方天の種子を陰刻、やや外傾する。
右手の五輪塔は足利尊氏の弟・直義の供養塔と伝える。
鎌倉時代末期~南北朝時代初期、花崗岩

境内東側の土壁前に並んで建つ。

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(左)宝篋印塔(越智式) 重文 南北朝時代前期 貞和四年(1348) 花崗岩 高さ320
塔身と基礎の間に請座(白矢印部分)を入れるこの地方独特のもので越智式と呼ばれる。南北朝時代前期の在銘作品で、極めて洗練された美しさを見せる


(右)石造宝塔(納経塔) 重文、鎌倉時代中期 弘安元年(1278) 花崗岩 高さ270
本格的な基壇上に建つ。首部、中央に帯状の高欄(勾欄)が外に出張っている。
塔身は、ゆるやかなふくらみを持ち、胎蔵界四仏の種子を直接四方に刻んでいるのは珍しい。
塔身部に刻銘があり、尾道の豪商・光阿弥陀仏のため、子息の光阿吉近が「弘安元年(1278)戊刁(寅)十月十四日」に納経塔を建て、塔中に法華経・浄土三部経・梵網経などを奉納したと記す。
尚、末尾に「大工 形部安光」と貴重な石大工名を刻む。
鎌倉時代(11921332)の石造宝塔の中では年代が古く、形態もよく整った優品である。



この後、道を挟んで、東側境内続きである海龍寺を訪れます。