京都から奈良へ向かう近鉄・京都線沿線の風景は楽しい。かつては荒涼とした野原が続いたと思われるが、昨今の開発が進み、住宅街が広がる。
そんな中、興戸駅の東北に位置する法泉寺・十三重石塔を訪れた。
一帯は京田辺市になり、国宝十一面観音像のある観音寺、腕の曲線が美しい千手観音像のある寿宝寺、静寂な禅寺・酬恩庵(一休寺)などなど古刹、名刹があり、何度か付近の駅に降り立ったことがあるが、その都度、法泉寺は気にはなっていました。
今回、やっと法泉寺を訪問できた理由が一つありますが、ややこしいので、最後に述べることにしたい。
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京田辺市は平成25 年統計で京都府での人口増加率No.2だそうで、また、大阪、京都、奈良の三都市に囲まれ、市内には近鉄京都線、JR学研都市線など9つもの駅がある。
興戸駅から徒歩での法泉寺への道すがら、お寺の場所を伺った年配のご婦人によると、お寺のある草内(くさじ)地域周辺では、新興住宅が増え、以前の10倍ほどの戸数になったそうです。わざわざお寺まで案内してくれました。
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法泉寺の全景 中央の大木は推定樹齢200年の「貝塚伊吹カイヅカイブキ」
以前、お寺は野原に囲まれ、ポツン今にも倒れそうな十三重石塔が建っていたそうです。 
この寺の創建年代等については不詳であるが、天長年間(824834)この地が干ばつに見舞われたとき、草むらから出現した本尊の十一面観音の力により泉が涌いたことから寺号を法泉寺としたというから、古い歴史がある。
古来、この地は東部を流れる木津川の水運や農業生産で栄え、西側の丘陵地域には前方後方墳が残るなど、また、普賢寺谷にある観音寺には国宝・天平仏が存在するなどその古い歴史を物語る。

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法泉寺十三重石塔 重文 
鎌倉時代中期 弘安元年(1278) 花崗岩 高さ約600
嵩低い二重基壇の上にのる初軸部は幅70㎝高さ54㎝、その四面に二重光背を背負う半肉彫りの顕教四方仏を刻んでいる。
基礎部分に弘安元年(1278)の銘がある。銘文中に「大工」として名の見える猪末行(伊末行)は、宋から渡来した石工・伊行末の系統の工人である。
 
室町時代までは奈良興福寺の支配下にあり、奈良西大寺の叡尊が、畿内各地の寺院の中から水防の要所を選び、放生池をつくり、十三重石塔を建立したもののひとつと伝えられている。
 
重文指定を受けた十三重石塔は20塔程ある。高さから見ると、宇治浮島(15.2) 奈良・般若寺(14.2)が断トツで、尾道・光明坊(815)、熊本・旧城泉寺(660)と続き、5番目に法泉寺(600)が続くことになる。


東大寺再建のため、俊乗坊重源から招かれた伊行末の系統の工人達がそれまで日本の石造技術では出来なかった硬い花崗岩を彫刻する技術を伝来し、鎌倉時代以降、多くの花崗岩の石造物が造られた。
前述の般若寺十三重石塔、宇陀市・大蔵寺十三重石塔、磨崖仏では加茂町当尾のミロク、岩船阿弥陀三尊(笑い仏)などその遺品は多い。


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基礎 南面「弘安元季 戌寅十一月廿六日、起立之、大工猪末行、勧進僧良印」と刻まれる。
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西面:阿弥陀
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北面:弥勒
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東面:薬師 軒裏に一重の垂木型をつくる
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南面:釈迦

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本堂 
本尊十一面観音像が祀られるが、住職不在で拝観できず残念です。

イメージ 11三宝荒神碑(境内の説明板) 
   本堂右横にあります。
三宝荒神は、如来荒神・鹿乱荒神・念怒荒神の三神とも、如来荒神・三宝荒神・子島荒神の三種の神とも説かれるが、本来の仏教には縁のないものである。
寺院に祭られる例は少なく、とくに関西地方では特異なものである。
この碑は、笠塔婆形であり、明応7(1498)の銘がある。高さ約1mの花崗岩製で、基礎・蓮座塔身を一石でつくる。塔身の上方に三つの宝珠があり、その中に梵字を刻む。銘はその下にあって、
「大功徳主法口、口氏梵口敬白、明応七戊午(1498)、秋七月十二日」とある。




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本堂左側にある室町期様式の枯山水を復元したという庭園
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大きな柱礎石を中心に敷石が拡がる

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境内隅に早咲きの白彼岸花

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る途中、法泉寺の道向かいにある草内小学校の校舎と道路の間に残る石造物に気付きました。
下の説明板を見ると、昔の人達の苦労と工夫が判ります。
明治以降の遺跡ですが、古くから暴れん坊・木津川水辺近くに広大な水田が集中するこの地域は、長い水害との闘いの歴史があったと推測され、十三重石塔に見られる叡尊の水供養の動機となったであろうし、溜池管理の精神が息づいたのであろう。





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最初に法泉寺まで案内してくれたおばさんが、「すぐ近くに神社がありこの地では有名ですよ」と教えてくれた神社に寄りました。徒歩3分ほどです。
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咋岡(くいおか)神社 
かつて草路城があり、木津川の渡し船「草内の渡し」を控える交通の要所だったとこで、神社の森の中には土塁も残るそうです。

最後に、まつたく個人的なことであるが、急遽、法泉寺を訪れた理由について述べる。
私の父が他界し、早、14年が経つ。最近、実家を整理中に、父の「林泉協會」と記した三冊の大学ノートが出てきて、中を見ると、昭和25年から平成7年まで途中空白期間もあるが、林泉協会例会で訪れた内容が主に、びっしりと記録されていました。
(京都林泉協会とは昭和7年に庭園史研究家の重森三玲氏らに創立され、HPを見ると、H25.12、第97112月例会が開催されています。)
父の生前も含めて、「林泉協會」の会員であることは知っていたが、内容まで知らなかった。読んでいると、小生がこの10年間程訪れてきた場所と同じ場所を訪問しているようである。父は庭園、建築、石造物を主に見、私は仏像を主に、ついでに庭園、石造物を見、古刹・名刹を巡っていたようです。
何か不思議な巡り合わせを感じている。
父が訪れた場所で私がまだ訪れていない場所が何カ所かあり、この後、訪れてみたいと思っている。生前には何も語らなかった父であったが、作戦に知らず知らずのうちにはまっている様である。
まあ、いいか・・・。
 
ということで、下記には、そのノートから法泉寺訪問記が書かれている箇所を原文そのままを記した。解説文は講師先生からの説明を父なりに解釈して、記載されたものと考えられる。この時の講師先生の名前は記録されていないが、他の記録ではほとんどは重森三玲先生、佐々木利三先生などである。 
 
平成445日 京都府田辺町酬恩庵 法泉寺 春日神社 常念寺 大智寺 安福寺
法泉寺十三重塔
 草内(くさじ)、今は田辺町。十三重塔では三番目。宇治の浮島、般若寺に次ぐ。1、4最下の笠が欠けている。相輪は後世のもの(昭和34)。花崗岩、塔身の佛は何佛? 二重光背。笠には垂木が掘ってある。佛は彫り深めただけ膨らました佛身。基礎が低いのも特徴。弘安元年1126日建立(1278)。石大工猪末行作(渡来人)
三宝荒神の石塔
本堂の右脇にあり、三尺余の小物乍ら、明応七年(1498)の年号があり、美しい笠を持っている。
西側庭園
室町後期と思われる。甚だしく荒廃しているが、枯滝り三尊、亀島の石組、可成り明瞭に残って、その時代を思わせる力強い線を示す