高野山開創1200年記念の必見仏の一つ、壇上伽藍・金堂のご本尊を拝観しました。
現在の本尊は、旧金堂が本尊と共に火災で昭和元年(1926)に焼失した後、高村光雲により昭和7(1932)に造立されたが、以来秘仏の伝統が守られ続け、ずっと人目に触れずにきました。そして、80年ぶりに開帳されることになり、一体どんな仏像なのか興味津々訪れた方も多いのではないかと思います。
金堂への階段を上がり、拝殿から遠くに薄暗い正面厨子中に白く輝く、木彫仏が見えます。
イメージ 1
金堂・本尊  (世界日報からコピー)
驚きました。薬師如来像と聞いていたが、全然違い、薬壺を持っていないようで、明王のような力強い像です。特に、大きく見開いた目、眼光が鋭く、両腕も太く、臂釧、腕釧をつけ賑やかです。
後で聞くと、金堂入り口に、像名は薬師如来と阿閦(あしゅく)如来と両者が書かれていたそうです。
古来、金堂本尊は薬師如来であるともいわれて、人々の信仰を集めてきたが、像の姿は絶対秘仏のためどこにも記録が無いまま、焼失してしまい、旧本尊に倣ったとみられる現在の本尊像は阿閦如来に近いようです。何しろ、旧本尊像は公開されたことのない秘仏で、明治以降、再三の公開要請を寺側は断り続け、写真も残されておらず、永遠に不明だそうです。ある意味、なかなかロマンのある話です。
阿閦如来とは東の浄土で怒りをたつことで悟りをえた仏で、密教の印相では左手で袈裟の端をもち、右手を手の甲を外側に向けて下げ、指先で地に触れる「触地印」を結ぶそうです 
江戸末期の仏師であり、近代の最初の彫刻家である『高村光雲』の力作を遠くからであったが、拝観を終え、何故かほっとした気持ちでした
 
密教道場である高野山は「奥之院」と「壇上伽藍」を二大聖地とし、その周辺には高野山真言宗総本山の「金剛峯寺」をはじめとし117ヶ寺もあるそうです。
奥之院には、墓石群、慰霊碑、供養塔などが数多くあり、民族、宗派の違いに関わらず全てを受け入れ、その寛容さが1200年継承され続けられ、高野山の魅力となっているのでしょう。
イメージ 4
高野山内マップ
 
イメージ 5
壇上伽藍
 
イメージ 2
本日4/22、午前9時から始まる報恩法会には播磨地区の檀信徒約700名が参加しました。小生もその中の一人です。写真は金堂の裏手ですが、各地域、各団体ごとに列を作って入場を待っています
4/2~5/21の期間中のほぼ毎日、全国津々浦々の地区別・報恩法会が組み込まれているようです 
 
イメージ 3
金堂の正面から入ります。
高野山の欠点の一つは雷による火災です。
現在の建物は7度目の再建で、昭和7年に京大・武田五一博士の手によって建立された鉄筋コンクリート造で屋根は入母屋造り。 
イメージ 13
金堂内の普段の様子  (観光協会パンフレットから借用)
今日は正面厨子が開かれ、ご本尊が坐し、左手から五色紐を握り、金堂前広場の塔婆に繋がります。
見難いが、奥の内陣の両側に掲げられている通称「血曼荼羅」は平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせたという。これはレプリカで実物は重文でこの後訪れた霊宝館で見学できました
小生は曼荼羅の後方(裏)遠くに坐しているので、そこからは本尊は拝せない。法会終了後、正面域は聖域ということで、少し横から拝観できました 
 
イメージ 6
中門 平成27(2015)42日落慶
172年ぶりの再建で、鎌倉時代の建築様式が採用されている
高野山内の西にある大門が総門であるのに対して、中門は壇上伽藍の正面に位置する五間二階建ての大きな楼門。用材はすべて山内で調達され、西塔後方の樹齢300年以上の檜の大木が使われ、高野檜皮が約1500本分も使われているそうです。さすが高野山です。
焼失を免れた江戸末期作の持国天・多聞天像、慶派を受け継ぐ仏師松本明慶が新造した増長天・広目天像が安置されています。
新造仏は現代風そのもので、胸にはトンボやセミの木彫が飾られています 
 
イメージ 7 イメージ 8
根本大塔 
左は金堂の回廊から見た大塔
右は西塔の裏山から出てきて、手前から准胝堂、御影堂越しに見た大塔
昭和12(1937)、空海入定1100年を記念して再建した鉄筋コンクリート造。 
イメージ 9
中央に胎蔵大日如来像、その四方に金剛界の四仏を安置する。
内部の柱に描かれた十六大菩薩、壁面四隅の真言八祖像などは堂本印象の筆ですばらしい。
 
金剛峰寺
壇上伽藍のすぐ近く、北東にあります。
金剛峯寺の名称は、弘法大師が命名し、高野山一山の総称であった。豊臣秀吉が亡母の菩提のために建立した青巖寺・興山寺を合併し金剛峯寺と改称、全国の末寺を代表する総本山となった。
当時の建物は火災で損失し、現在の建物は文久3(1863)に当時の姿をそのままに再現させたものである 
イメージ 10
金剛峰寺の境内図
 
イメージ 11
壇上伽藍の東端のメイン道路に面した金剛峰寺表門
 沢山の参拝者で賑わう場所にあります。
 
イメージ 12
中央が表玄関にあたる大玄関。天皇・皇族や高野山重職だけが出入りしました。右手に小玄関があり、上綱職の方々がもっぱら使用されます。一般の僧侶は裏口より出入りしたそうですが、現在は、右端にある一般参詣入口を利用しています
大玄関前広場の角塔婆を結ぶ五色の紐が見えますが、持仏間のご本尊の腕と繋がっています
 
イメージ 17
屋根の上に置かれた天水桶が特徴的です。屋根が檜皮葺なので、普段から雨水を溜めておき、火災が発生した時に、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて、類焼を食い止めるべく防災設備で、建物の数ヶ所で見られます。屋根に上るための梯子も置かれています。 
 
イメージ 14
(お寺HPから借用)
大広間は重要な儀式・法要が執り行われる。襖には群鶴の絵、松の絵などが描かれ、狩野法眼元信の筆と伝えられています。
右手が持仏間で、大玄関から正面奥に位置します。厨子には御本尊・弘法大師坐像が安置されています。平成11年に行われた平成の大修理落慶大法会の際にご開帳されて以来、16年ぶりのご開帳となるそうですが、遠く、暗くて見難い。
 
奥之院
高野山の信仰の中心であり、弘法大師が入定されている聖地です。
一の橋から御廟まで約2kmの参道両側には、20万基を超える皇族、諸大名から庶民にいたるまでの供養塔が樹齢数百年を超える杉木立の中に立ち並んでいます
イメージ 15
石畳の参道を突き当たりが御廟橋です。ここからはカメラ撮影禁止で、沢山の参拝者の誰一人、この約束を破る方はいません。正面に見えるのが燈籠堂
その奥に弘法大師御廟があり、ぐるっと一周して、お参りできます
 
イメージ 16
県史跡 崇源夫人五輪石塔 高さ6.6
奥の院の石碑群の中でもっとも大きく「一番石塔」と知られるが、参道から少し奥に入る場所にあり、訪れる人は今日は誰もいません。淀君の妹「お江の方」のこと。
供養塔建立は鎌倉時代から始まったが、江戸時代が最も盛んであった。祖先崇拝の風習を推し進めた徳川幕府の政策もあり、諸大名が競って建てたそうです
 
この後、壇上伽藍の南にある霊宝館で開催中の「三大秘宝と孔雀明王展」の仏像群を紹介したい