宗泉寺、野洲市歴史民族博物館を見学した後、野洲市を中心に以前訪問できなかった寺院、仏像を訪れました
野洲市の妓王寺、蓮長寺、仏法寺、から草津市に移動し、橘堂(観音堂)へ、最後に栗東市の東方寺、安養寺などを訪れたので報告したい。
妓王寺は10時に訪問予約を入れていたので、少し時間があり、少し北側にある重文・聖観音像のある来迎寺、更に北側で近江八幡市に入るが小田神社に寄ってみました。
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今回訪問した寺院 
 
来迎寺 滋賀県野洲市小南1912
2011.23に安土城考古博物館で開催された「近江の観音像と西国三十三所巡礼」展で拝観した平安前期の重文・木造聖観音立像の印象は強烈で、その異相が今も記憶に残ります。普段公開はされず、本日は拝観できないが、そんな仏像が祀られる来迎寺の雰囲気を感じたく寄ってみました                   イメージ 7
 
 
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寺は長徳元年(995)に往生要集で有名な恵心僧都源信により開かれたといわれている。もと天台宗で現在浄土宗の寺院ということで、本堂には、本尊の阿弥陀像と、天台宗時代の本尊「聖観音菩薩立像(重文・平安前期)」が安置されている
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本堂
広々と続く田畑の中に聳え立ちます
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来迎寺石造層塔・残欠
鎌倉時代中期 花崗岩 上四層は宝篋印塔の笠で後補
一層の屋根以下が鎌倉中期の作、正面軸部は阿弥陀如来坐像を半肉彫りする
 
 
来迎寺の先にある大きい楼門の小田神社に寄りました。
 
小田神社
国道477号線に突き当たるように、日野川沿いに鎮座し、ここは近江八幡市の西端に位置します。 松林に囲まれて、巨大な石鳥居と楼門を構えており、いかにも古社らしく佇む。
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楼門 重文 南北朝時代に再建築された
かって信長が安土築城時この楼門を運ぼうとしたが氏子達が一夜にその脚部を切り縮めたためその難をのがれたと伝える。
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調べていると、
小田神社は古くから仁保寺と神仏習合の形態を保持していて仁保寺の遺構である大日堂(付近の集落にある)には大日如来坐像(像高92.4cm、一木造、藤原時代初期)が安置され、重文だそうです。
右の写真を載せました
 
 
 
 
 
 
 
妓王寺訪問は野洲市観光物産協会に事前電話すると、快く許可を戴き、本日
10時に訪問しました。到着すると、地元の町内役員の方が、すでに来られ、
門、戸を開け待っていただいてました。数年前までは、住職(尼)さんが一人で守っていたそうですが、亡くなられ、現在は地元の方々が輪番で、掃除などお世話をしているそうです。ご苦労様です。
 
妓王寺
京都・嵯峨野の祇王寺は、苔庭園と簡素なお堂が閑寂な雰囲気に包まれ、好きなお堂の一つです。
平家物語巻第一の「祇王」の段で出てくる物語が有名で、本尊の両脇に、祇王・祇女・刀自・佛御前と、清盛の木像が安置され、境内には墓塔と供養塔が祀られています。
ということで、野洲市の妓王寺には興味を持っていました
 
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妓王寺 
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妓王寺は浄土宗の尼寺で、祇王らの菩提を弔うために建立されました。
祇王が生まれたといわれる近江国野洲郡江辺荘(現在の野洲市永原・中北・北付近)のほぼ中心に位置します。江戸時代に再建され、仏像や宝物は17世紀後半に整備されています 
かって、水飢饉で農民が苦しむ話をきき、妓王の願いにより平清盛が掘らせたのが、祇王井川で灌漑用の川である。野洲川から当地を通り、琵琶湖に流れ込む約
12kmの用水である(下に地図、写真を示す)
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本尊阿弥陀如来坐像の両脇の厨子中に「妓王・妓女」「刀自(閉)・佛御前」の木像が安置されています。毎年8月25日、祇王の命日には、法要が勤められ、この日のみ厨子が開扉されます。
妓王・妓女、刀自(閉)・佛御前像の写真が掲げられています。 
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来迎形式の阿弥陀三尊像
 
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あまり広くない境内には石造の供養塔をまつっています。
 
祇王井は野洲川の三上地先に始まり、妓王寺付近の十か村を流れる、長い歴史を伝える用水で、今なお現役で田畑を潤し、その流れは大切に守り続けられています。
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町並みの裏手を流れる 永原(下町) 
野洲市観光物産協会パンフから 
 
妓王寺を後にして、県道32号を西へ走り、下図のように比留田の集落に入っていきます。車1台がどうにか通れる道を蓮長寺へ向かいます。
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どうやら道を一筋間違えたようでこんな場面に出会いました。
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道の正面突き当たりの古風な茅葺き山門前に「国宝薬師如来」の石柱が目に止まりました。奥の左に立派な収蔵庫が見えます。蓮長寺の場所を通りがかりのおじいさんに尋ねるついでに国宝薬師如来さんのことを聞くと「薬師さん」は年に一回だけお参りできるそうです。
帰って調べると、藤原時代の重文・薬師如来坐像でもとは比留田薬師堂と独立していたが、現在は蓮長寺近くの西得寺の所管となっているようですいやいやすごいものがあるもので、驚きました。機会があれば訪れてみたい
ということで、薬師堂の裏手(北側)に蓮長寺はありました
 
蓮長寺
親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院。
元弘2(1332)、創建されたという
 
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本堂 左手に収蔵庫の一部が見えます 
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拝観のお電話をすると快諾いただき、ご住職が収蔵庫を開けていただきました。写真撮影もご了解いただき有り難いことです
十一面観音立像は、もとは付近の大寺であった天台系・高福寺に伝わった像で、火災によって廃寺となった後、蓮長寺飛地境内の観音堂に安置されていた。現在は蓮長寺境内の収蔵庫に祀られている。
観音堂はここから西の方に少し離れた場所というから、写真の左手奥の方にあったのであろう。
 
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十一面観音像 重文 像高166cm 内刳を施さない檜の一木造 平安中期 
ほぼ等身大の檀像風の個性が強い仏像である。とにかく、これほど腰を強くくねらせた像は初めて見る。凛々しい顔は鼻筋がすっと通り、童顔であり、どこか異国の表情を思わせる。
残念ながら、頭頂仏を失うほか、右指先や足先、化仏の一部が後補だそうである 
住職のお話では、星と祭」の井上靖が来られた時には、説明されたそうです。
その中の一文を紹介。『観音堂に入ると、正面奥にお厨子があり、その前は畳が20枚ほど敷かれた部屋になっていた』そうである。
イメージ 25物語の終盤で訪れたためか、主人公・架山が拝観した時の観音像記載にはそれほど驚きを示していない記述である。
 
 
 
天衣の下端の左右に表された旋転文
貞観彫刻に見られる力強さを感じさせるとの見方もある。右写真。
 
 
 
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蓮長寺境内から出て、田畑越しに見る比良山系。
すばやい雲の晴れ間にすばらしい姿を見せます。
 
比留田集落から県道32号線、更に国道477号線を西へ走り、井口集落に入る。
 
仏法寺 滋賀県野洲姿勢口480
創建は不詳ですが、当初は天台宗の寺院で万福寺と称していました。その後、一時衰退しましたが慶長年間(15961615)に立誉和尚が浄土宗に改宗し中興しています。
寺宝である木造聖観音立像、木造大日如来座像の両像ともに境内東側にあった旧万福寺の尊像とされます
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浄土宗の幟が目立つ山門、左手は鐘楼。
小さな集落の割りには広い境内
 
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本堂
左手の庫裏を訪ねると住職が早くからお堂を開けて、待っていただいていたようです。「ようこそお参り」と快く、本堂内に案内いただく。写真撮影OK。
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浄土宗のお寺であるが、本堂正面の厨子には、大日如来坐像、向かって右手に聖観音像が祀られる厨子があり、法然上人の垂れ幕も見られます。・・・
野洲郡西国三十三観音霊場第22番札所、野洲郡圓光大師(法然上人)二十五霊場第5番札所となっています。なるほど。 
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お寺パンフレットによると、乾漆造丈六の金剛界大日如来(平安後期 像高170cm 市指定文化財)とある。残念ながら、玉眼であったが、水晶が抜き取られ修復されている。おおきく圧倒される。
 
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木造聖観音立像 重文 像高153cm 平安時代中期
檜一材より頭体の根幹部及び左手臂及び右手臂まで彫出し、背面より内刳りを施す。
丸い面相に、なで肩で穏やかな肉付けを行っている(神仏います近江から)
 
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仏法寺山門向かって右横にある千原神社鳥居と参道。兵主大社の末社です。境内は仕切りも何も無く同一境内で明治の神仏分離の不自然が残っています。そんなことはよくあることです。
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千原神社石造宝塔 鎌倉時代後期 文保三年(1319)
花崗岩 高さ152cm 市指定文化財
神社拝殿前に小ぶりながら立派な宝塔で、後に見えるのは仏法寺本堂で、境内の区切りはない塔身正面には、扉型を刻んでいる。 
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先ほどの仏法寺本堂前にある宝篋印塔
市指定文化財で鎌倉時代後期、花崗岩 高さ233cmのもので、宝塔と同年号を持ち、同時建立したものであろう
 
 
この後、琵琶湖沿いに走り、草津市・橘堂(観音堂)へ、更に、栗東市の東方寺、安養寺などの訪問記は次回に報告したい。