まぼろしの大寺・内山永久寺が創建900年にあたるそうで、「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」の展示会があり、観てきました。
天理市立文化センター1階展示ホールで、期間は831()までの 9時から17時、月曜日は休館、入場無料です。
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ホール前に立つポスター。重文・聖観音像(東大寺蔵)
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「内山永久寺」という名前は「山辺の道」の一部を歩いた時、実際には訪問できなかったが、石上神宮付近に「内山永久寺」跡の碑だけが、残っているに過ぎないが、かっては大寺であったことを知りました。
その後、気にはなりましたが、時間が過ぎ、今年、8/1に平等寺に訪れた時、明治初めの廃仏毀釈の凄まじい嵐の現実を知ることになり、その折、「内山永久寺」も同様運命を辿ったそうで、調べていると、天理市の展示会を知り、訪れた次第です。
 
天理駅の南東約500m付近に天理市役所と文化センターは並んで建っています
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天理市役所はユニークな外観
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壁には朝顔、ゴウヤが茂り、省エネ
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天理市立文化センター これも立派な建物です 
 
「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」展では、仏教美術や建造物を紹介するパネル展示中心で、実物の展示はほとんどないのですが、仏像写真パネルは大きく、カラーかつ鮮明写真で判り易かった。各仏像パネルは写真撮影禁止ですが、天理市記念展示物、パネルは撮影OK。
 
内山永久寺とは
永久年間(1113-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院の頼実が創建。当初はこじんまりしていたが、本地垂迹説が広まるにつれて石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようになり、興福寺・大乗院の権威を背景として、室町期には絶大なる勢力を誇った 
大和国では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺であり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされた
江戸期の奈良寺院を石高順に並べるデータでは、興福寺15,033石と圧倒的に多く、次いで多武峰寺3,000石、東大寺2,211石、一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石、内山永久寺971石、大乗院914石と続くそうです。
多武峰寺は談山神社であり、一乗院、大乗院は興福寺の子院で、現在は廃寺、庭園のみが残るだけです
廃仏毀釈の被害により明治時代初期に廃寺となった。寺跡は石上神宮の南方、山の辺の道沿いにあり、かつての浄土式庭園の跡である池が残る。
 
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内山永久寺の復元模型
三方を山に囲まれている様子がよく分かります。このことから内山というそうです。
向かって左手が北になっています。
模型の真ん中辺りを左右に横切っている道が「山の辺の道」です。
 
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現在の航空写真
模型に合わせて、手前が西門になっています。現在は本堂前にあった池が残るだけ(上記のポスター写真)で、参道の石畳、石垣など石材にいたるまで、運び出されたと云う。大寺院の痕跡など微塵も感じさせないほど、畑と山しかないようです。 
このような大寺を失ったことが、後に同地域一帯が天理教によって席巻される結果に繋がったとも言われている(ウィキペディアから)
 
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江戸時代の「和州内山永久寺之図」を明治期に書写されたもののようです。 
天正13年(1585年)の時点で、56の坊・院が存在したそうです
 
内山永久寺参詣道
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内山永久寺の参詣道の様子  
(展示パネル説明文から引用)
参道は、丹波市町、田町、勾田町付近の上街道の四ツ辻から参道が始まり、西山古墳の南辺を通り、杣之内の家並みを抜け、永久寺の西門へ通じていました。石畳を敷いた参道には、参詣者がたえなかったと言われています。上街道の四ツ辻参道に山門をかまえる浄国寺は、郡山城主が衣装替えで立ち寄り、永久寺に参詣したと伝えられています。そのなごりか浄国寺の本堂には、今でも駕籠が吊りかけてあります 
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右下の写真を拡大  山辺御県座神社境内の丁石
(展示パネル説明文)
参道には、上街道の四ツ辻から西門まで、一丁ごとに丁石を立てていました。
その内、二丁石と六丁石が、天理市西井戸堂町大門にある山辺御県座神社境内に残されています。
何故か、山辺御県座神社境内に並んで、保存されています。この神社は内山永久寺とは全く関係がないそうです。
 少し、横道にそれるが、山辺御県座神社境内には、妙観寺観音堂があり、往時の神宮寺で、鞘仏で有名な重文の藤原期の木造十一面観音立像(像高244.8cm)を本尊とするが、廃仏毀釈により廃寺となったが、村人など関係者の信仰が強く、ひっそりと、しっかりと守られ、現在に至っている。また、教育委員会経由で村人管理され、事前予約で、丁寧に拝観させていただけるそうである。
 
永久寺の出土遺物の展示
 
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境内跡からの発掘調査で出てきた
出土品は1214世紀頃のもので、江戸時代の瓦はほとんど出土せず、明治の廃仏毀釈まで古い建物が残っていたことになります。
 
 
永久寺の仏像・仏画
「内山永久寺の残像」というテーマでは、ほとんどがパネル展示です。
天理市埋蔵文化財センターだよりというチラシには、「内山永久寺の仏像・仏画のゆくえ」の一覧表がありましたので、紹介しておきます
国宝を含めて、沢山の文化財が各所に散在しているのが分かります 
 
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石上神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿(国宝)は2012.8に訪問しましたので、
 
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木造持国天立像/木造多聞天立像
(いずれも重文・東大寺蔵で現在は東大寺ミュージアムで拝観できる)
日本の塔婆大和内山永久寺多宝塔から借用 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm
<展示パネルの説明文>明治の廃仏毀釈の時、大和西大寺住職・大和興福寺を管理した佐伯泓澄氏の斡旋により、永久寺から東大寺二月堂に寄進される。
阿弥陀如来を本尊とする内山永久寺の二天脇侍といわれる
  
 
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杏町光楽寺大日如来坐 実物展示 
(日本の塔婆大和内山永久寺多宝塔から借用)
像高は約60cm。造立年代は総合的に見ておそらく1000年ほど前と推定される。宝冠も彫り出したもので本格的な彫像であるこれが正しいとすれば、永久寺創建前に造立され、いつしか永久寺に遷されたものと推定されるそうです。
 
最後に
廃仏毀釈は「狂気の沙汰」であるが、明治政府が誘導したものではなく、政府の神仏判然令を契機として、一部の国学者などが中心となって民衆を扇動したものです。当然、その影響は地域や寺による差が出、内山永久寺が壊滅的な打撃を受けたのは、修験道の関わり合いが深かったこともあるが、それ以上に、僧侶に信仰心やら信念というものが希薄で、僧侶は還俗し、石上神宮の神官となった自らの処世ばかりを気にかけ、寺領の民衆を大事にしていなかったので味方につけられなかった(逆に略奪を受けた)ことなどがあるのではないかと言われています。
 
大御輪寺、平等寺から始まり、興福寺、内山永久寺、妙観寺などそれぞれの寺が廃仏毀釈の嵐に見舞われ、夫々の対応が現在の姿を示している訳です。
 
尚、今年の10/12()に天理市主催のてくてくてんり「秋」文化歴史探訪 創建900年消えた幻の大寺院「内山永久寺」第2弾:現地ウォークという催しがあるそうで、是非参加したいと思っている。