京阪・追分駅から1号線沿いに大谷駅に向かって逢坂峠を上り切り、旧東海道は1号線から離れ、161号線沿いになり、浜大津まで続きます。私は長安寺を訪れた後、長等公園の一角にある三橋節子美術館に寄り、長等神社前をすぎ、京阪・浜大津駅に出ました。
今回は追分の月心寺から逢坂峠を上り、旧東海道を歩き、大谷の蝉丸神社までを報告します。
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京阪・追分駅から国道沿いに大谷方面へ歩くと摂取院という寺院があります。ちょうど名神高速道路(京都東IC手前)が交差しています。陸橋上から撮影しました。

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この後、名神、京阪電車、国道と並んでいます。交通量が多いが、歩道がしっかりあるので、安心です。江戸時代には、両脇に山が迫る道幅の狭い街道をはさんで両側にぎっしりと家々が建ち並び、谷間を埋めていました。街道沿いには茶店や土産物を売る店が並び、旅人や牛馬の往来がひっきりなし。現在からは想像もできない賑わいぶりで、東海道随一であったということです。当時の逢坂山名物は「算盤、縫い針、大津絵、餅」などが盛んで、順次、紹介します。

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月心寺は江戸時代に「走井(はしりい)の清水」で有名な走り井餅の本舗でであった所を後に橋本関雪氏が別荘として建てたもので,すばらしい庭園で知られています。中に、百歳の小町像が祀っているそうである。

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玄関先は閑寂なたたずまいである。今日は年配のお客さんが大勢、食事中であり、拝観はできませんでした。井戸には今も澄み切った水をたたえている。「走井」とは湧き方がとくに勢いよく、あふれて・走る・清水を囲った井戸のことだそうです。

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        西側にある山門。普段は閉ざされているようです。

この地は謡曲「蝉丸」の舞台で「近江山河抄」逢坂越では白洲正子の独断場で、詳しい説明がなされている。難しい説明でなかなか理解できない。古今東西、多くの歌人に詠まれ、歴史に名を残す人物なら必ず通ったそうである。小倉百人一首を記す。
 ・「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」 蝉丸
 ・「夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」 清少納言


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走り井餅は良い清水と近江の米を使ったお菓子がこの辺りの名物だったそうです。今は、ここでは入手できず、大津で購入できるようである。私は以前、京都・八幡市の石清水八幡宮の鳥居前にある走井餅老舗で食べたことがある。大変おいしかったことと、ネーミーングが記憶にあった。別の本舗のようである。
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月心寺を少し過ぎたところにある「大津算盤」の標識と昔の道路の再現です。この辺りは大津絵と並んで大津算盤の産地でした。標識には『江戸時代、この付近で売られていた大津算盤は慶長17年に追分の片岡庄兵衛が明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造を始めたものと伝える』とあります。尚、大津算盤は上が2個、下が5個の7つ玉でした。その後、羽柴秀吉が播州三木城を攻略したとき大津に避難した人が拾得して三木に持ち帰り、伝えたものが、隣町の小野市に伝わり、小野市が現在日本一の生産量を誇るようになったという話です。歴史の巡り合わせは面白い。

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北海、北陸から海産物や米等が水運で琵琶湖を通って大津港に辿り着き、陸路、馬車、牛車により逢坂山、九条山を越えて京都へ運ばれました。しかしながら逢坂山は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。そこで、文化2年(1805)京都の心学者脇坂義堂が一万両の工費を投じて工事にあたったもので、これによって牛車などによる荷物の運搬が円滑に進むようになったそうです。
車石。蝉丸神社の鳥居脇に保存されているものです。

イメージ 16奥に牛車が通っており、その通り道だけ一段掘り下げられているのが分かります。この頃にはすでに通行の安全を図るため、歩道と車道が区別されていたようです。

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さらに国道沿いを上がると京阪・大谷駅、無人です。ここから少しの距離、旧東海道の街道が残っています。鰻屋さんの看板に書かれた清少納言の歌。

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        街道沿いの古い軒並み。奥に見えるのは蝉丸神社。

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蝉丸神社。こんもりした森に包まれています。琵琶の名手蝉丸を祀る蝉丸神社が逢坂山の麓に旧東海道沿い三ケ所ある。ここの他に逢坂峠の頂上付近の関蝉丸神社上社、大津側に下った国道161号線沿いの蝉丸下神社である。石燈籠は元文2年(1740、徳川吉宗時代)のもの。

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        蝉丸神社本殿。万治3年(1660、江戸初期)現在の社殿を建立。

謡曲「蝉丸」では蝉丸は延喜(醍醐天皇)第四の皇子蝉丸が盲目に生まれたため、逢坂山に捨てられ、そこへ逆髪という狂人の姉宮が来合わせて、互いの不幸をかこち合うという哀話だそうである。白洲正子は幼い頃、逆髪を演じたそうです。諸芸能を生業とする人々に崇敬され、それら人々の興業には当神社による免許が必要とされたという。

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        蝉丸神社裏の道を奥に行くと普段よく通っている名神高速道路上に出ます。

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高速道路の蝉丸トンネル入口の真上にこの碑が建っています。逆光で文字が見えないが「逢坂山とんねる跡」と書かれています。すぐ横には、新興住宅街が広がっています。石碑の裏には次のように記載されています。「明治13年,日本の技術で初めてつくった旧東海道線逢坂山トンネルの西口は名神高速道路建設に当りこの地下十八米に埋設された。時代の推移を思いここに碑を建てて記念する」と。

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トンネルの東口は逢坂峠を越えて、逢坂一丁目の信号(国道1号線の分岐点)の左手、少し入るとあります。現在,この内部は京大地核変動観測所になっているそうです。
石額は竣工を記念して時の太政大臣三条実美の筆(明治庚辰7月の銘、明治13年・1820年)。「落成」では縁起が悪いので「楽成」としたそうである。昔の大臣には権威があったのですね。

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        トンネル内のレンガ造り。昔の人々の苦難が偲ばれる歴史遺産です。


この後、蝉丸神社横の日本一うまい鰻・かねよに寄り、161号線沿いの神社、お寺、長等公園にある三橋節子美術館、大津に着いて大津絵、大津絵煎餅などを訪れた。