京と近江を分かつ、逢坂山があります。そこに設置された逢坂の関は京の都への玄関口で、東海道と中山道を要してた交通の要。平安時代の中期以降は、不破関と鈴鹿関と並ぶ「三関」のひとつとされていたほどですから、追いはぎなどが横行した山深かい、危険な場所であつたのでしょう。
今回、白洲正子の「近江山河抄」逢坂越を歩いてみました。まず、その中で、石仏を取り上げ紹介した。
逢坂山周辺地図。
今回、白洲正子の「近江山河抄」逢坂越を歩いてみました。まず、その中で、石仏を取り上げ紹介した。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/4a/cd/j/o0355040014633868296.jpg?caw=800)
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/f3/d1/j/o0270018814633868299.jpg?caw=800)
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/0f/1d/j/o0270018914633868302.jpg?caw=800)
寂光寺は鉄筋コンクリートの新しいお堂で、日蓮宗のお寺です。
藤尾磨崖仏はその隣のお堂の奥です。
この道はこれより先は狭くなつており、小関越の道であり、逢坂越え(大関越)の迂回路で、三井寺へと続いてるようです。小関越えの途中にあり、古くは「山田堂」「藤尾観音堂」と呼ばれる寺にありました。昔は人通りも多くて、道行く人がここで一服し、清水を飲み弁当を使ったようです。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/12/10/j/o0400026714633868304.jpg?caw=800)
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/db/6d/j/o0400026714633868306.jpg?caw=800)
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/d2/f9/j/o0224032014633868307.jpg?caw=800)
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/e4/7f/j/o0214032014633868309.jpg?caw=800)
高さ278cmcm・幅566cm横長の花崗岩に、大小十五体の像と梵字が彫られています。中尊は、像高148cmの阿弥陀如来像で、向かって右側に観音・勢至の両菩薩像、左側には地蔵菩薩像が彫られています。阿弥陀如来像の光背外側に「延応二年」(1240)と読めそうな刻銘があり、像の様式から見ても鎌倉時代の作と考えられています。これに対し、他の諸尊は形も小さく、、彫法も粗荒なものがあるところから、後に追刻したと考えられます。大津市の指定文化財に指定された。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/5b/ed/j/o0400026714633868310.jpg?caw=800)
白洲正子曰く「古い所によく見られる神仏混淆の一形式だが、そんなことは実はどうでもいい、私はひたすらその美しさに目を奪われ、歴史の奥の深さに心を打たれた」と絶賛している。
②関寺の牛塔(長安寺宝塔)
逢坂山を越えて、旧東海道沿いに161号線を大津に下ると左手に京阪線路の踏み切り越えに見える。逢坂関からその名をとったとされる関寺は、詳しいことは分かっていないが、更級日記にも登場するなど平安時代の大寺であったそうである。![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/eb/58/j/o0214032014633868312.jpg?caw=800)
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/c4/70/j/o0400028014633868313.jpg?caw=800)
以下に白州正子「近江山河抄」逢坂越からの抜粋を記す。
蝉丸神社の下社「関清水明神」から少し下がった所に、「牛塔うしとう」と呼ばれる大きな石塔が建っている。このあたりは昔、関寺(世喜寺とも書く)のあった所で、来歴がはっきりしないのは、関の神社に付随する神宮寺であったのだろう。草創の時、天竺の雪山(ヒマラヤ)から、牛乳を将来し、金鶏の香合に入れて納めたので、牛塔と名づけ、そこを鶏坂とも呼んだという。が、もともと牛とは縁のある塔で、恵心僧都が関寺を再興した時、迦葉仏が白牛に化身して手伝い、工事の終了とともに死んだ、その牛を弔うために造ったともいわれている。もとはと言えば、材木の運搬に使役した牛を、信心ぶかい人が、迦葉仏の化身だと夢に見て、いいふらしたにすぎないが、藤原道長や頼通まで、拝みに来るという騒ぎであった。ただそれだけの話とはいえ、こんな美しい塔が建ったことは、それこそ嘘から出たまことといえるであろう。石塔寺の三重の塔にはまだ朝鮮の影響が見られたが、この宝塔は完全に和様化され、力強い中に暖かみが感じられる。淡海の国のもう一つの枕言葉を「石走る」というのも、石に恵まれていたことの形容かもしれない。
白洲正子はこの牛塔と石塔寺石塔を日本一と賞賛している。
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/80/21/j/o0214032014633868316.jpg?caw=800)
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/54/90/j/o0224032014633868319.jpg?caw=800)
右は上から見た牛塔。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/81/c6/j/o0270018914633868320.jpg?caw=800)
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20191107/15/teravist/cf/8d/j/o0270018914633868323.jpg?caw=800)
左:長安寺境内。
右:長安寺近辺は伊勢参宮名所図絵にも載っている謡曲「関寺小町」の舞台であり、鬱蒼とした境内の片隅に、小野小町の供養塔がある。
以上はこの付近の石仏・石塔を報告したが、この後、京阪・追分駅から大谷駅、上栄町駅と逢坂山を越えた道沿いに関して報告します。