京と近江を分かつ、逢坂山があります。そこに設置された逢坂の関は京の都への玄関口で、東海道と中山道を要してた交通の要。平安時代の中期以降は、不破関と鈴鹿関と並ぶ「三関」のひとつとされていたほどですから、追いはぎなどが横行した山深かい、危険な場所であつたのでしょう。
今回、白洲正子の「近江山河抄」逢坂越を歩いてみました。まず、その中で、石仏を取り上げ紹介した。
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         逢坂山周辺地図。

①寂光寺の磨崖佛

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京阪・追分駅を降り、国道沿いに京都方面に戻り、右手の161号線沿いに進むと、藤尾の町があり、右手にある。

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寂光寺は鉄筋コンクリートの新しいお堂で、日蓮宗のお寺です。
藤尾磨崖仏はその隣のお堂の奥です。
この道はこれより先は狭くなつており、小関越の道であり、逢坂越え(大関越)の迂回路で、三井寺へと続いてるようです。小関越えの途中にあり、古くは「山田堂」「藤尾観音堂」と呼ばれる寺にありました。昔は人通りも多くて、道行く人がここで一服し、清水を飲み弁当を使ったようです。

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高さ278cmcm・幅566cm横長の花崗岩に、大小十五体の像と梵字が彫られています。中尊は、像高148cmの阿弥陀如来像で、向かって右側に観音・勢至の両菩薩像、左側には地蔵菩薩像が彫られています。阿弥陀如来像の光背外側に「延応二年」(1240)と読めそうな刻銘があり、像の様式から見ても鎌倉時代の作と考えられています。これに対し、他の諸尊は形も小さく、、彫法も粗荒なものがあるところから、後に追刻したと考えられます。大津市の指定文化財に指定された。

イメージ 9この石仏は石を切り取って造ったものでなく、山の巨岩に直接彫刻されたものである。彫刻部分だけお堂の中に入っている。外部の湿気の影響を大きく受け、岩石の色が日によって褐色度が変化するとのことです。

白洲正子曰く「古い所によく見られる神仏混淆の一形式だが、そんなことは実はどうでもいい、私はひたすらその美しさに目を奪われ、歴史の奥の深さに心を打たれた」と絶賛している。


②関寺の牛塔(長安寺宝塔)

逢坂山を越えて、旧東海道沿いに161号線を大津に下ると左手に京阪線路の踏み切り越えに見える。逢坂関からその名をとったとされる関寺は、詳しいことは分かっていないが、更級日記にも登場するなど平安時代の大寺であったそうである。

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関寺の牛塔と呼ばれる長安寺の重文・石造宝塔。高さ一丈(約3.3m)、八角型の礎石の上に周囲16尺の巨大な壷形の塔身をおき、笠石をつけたもの。1018~22年に恵心僧都が再興した折に、牛が大いに働き、その牛の供養のために造立されたのが関寺の牛塔と伝えられている。
以下に白州正子「近江山河抄」逢坂越からの抜粋を記す。
蝉丸神社の下社「関清水明神」から少し下がった所に、「牛塔うしとう」と呼ばれる大きな石塔が建っている。このあたりは昔、関寺(世喜寺とも書く)のあった所で、来歴がはっきりしないのは、関の神社に付随する神宮寺であったのだろう。草創の時、天竺の雪山(ヒマラヤ)から、牛乳を将来し、金鶏の香合に入れて納めたので、牛塔と名づけ、そこを鶏坂とも呼んだという。が、もともと牛とは縁のある塔で、恵心僧都が関寺を再興した時、迦葉仏が白牛に化身して手伝い、工事の終了とともに死んだ、その牛を弔うために造ったともいわれている。もとはと言えば、材木の運搬に使役した牛を、信心ぶかい人が、迦葉仏の化身だと夢に見て、いいふらしたにすぎないが、藤原道長や頼通まで、拝みに来るという騒ぎであった。ただそれだけの話とはいえ、こんな美しい塔が建ったことは、それこそ嘘から出たまことといえるであろう。石塔寺の三重の塔にはまだ朝鮮の影響が見られたが、この宝塔は完全に和様化され、力強い中に暖かみが感じられる。淡海の国のもう一つの枕言葉を「石走る」というのも、石に恵まれていたことの形容かもしれない。

白洲正子はこの牛塔と石塔寺石塔を日本一と賞賛している。

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右は上から見た牛塔。

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左:長安寺境内。
右:長安寺近辺は伊勢参宮名所図絵にも載っている謡曲「関寺小町」の舞台であり、鬱蒼とした境内の片隅に、小野小町の供養塔がある。


以上はこの付近の石仏・石塔を報告したが、この後、京阪・追分駅から大谷駅、上栄町駅と逢坂山を越えた道沿いに関して報告します。