引き続き、京都春季非公開文化財特別拝観(5/1~10、古都古文化保存協会)で妙心寺・隣華院→岩倉具視幽棲旧宅→心光院→得浄明院→明智光秀の首塚を訪問しました。

<妙心寺塔頭隣華院>
賤ヶ岳七本槍で名高い脇坂安治の開基で、慶長4年(1599)豊臣秀吉の信任篤い南化玄興を開山に創建されました。南化和尚は、慧林寺の快川和尚の弟子であり、織田信長、豊臣秀吉、山内一豊、上杉景勝、直江兼継らの戦国武将に多大なる影響を与えた禅僧として世に知られています。
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       玄関と方丈。

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       大玄関。

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       寺紋の蟇股など彫刻がすばらしい。

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       方丈庭園。「梵天庭」という。中央には座禅石がある。

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(パンフレッドから転写) 方丈に描かれた長谷川等伯61歳の作といわれる襖絵「水墨山水図」(重文)は、四季折々の風景が金地に墨一色で描かれた創建時のもの。全部で24面ある。僧が描かれるが誰も背を向ける姿はない。

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(パンフレッドから転写) 客殿上間にある狩野永岳の襖絵「西園雅集図」。その他、「四季花鳥図」「紅葉図」など、金地極彩色の鮮やかな襖絵あり。


<岩倉具視幽棲旧宅>
京都バス「岩倉実相院」下車すぐ。公武合体を唱え、和宮の降嫁に尽力して尊攘派に弾劾され、1862年(文久2)から5年間幽棲した邸宅。ここで薩摩など諸藩の志士と通じ、維新の密議をこらしたという。
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        門。

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       岩倉具視幽棲旧宅。

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       岩倉具視遺髪碑。

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邸内の「対岳文庫」には当時の維新史料文書、具視の遺品など重要文化財及び市指定文化財があり公開している。設計は武田五一。「対岳」は岩倉具視自身の雅号である。

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(パンフレッドから転写)岩倉村幽居の図(絵巻)で岩倉桜子筆。自らが台所で炊事しているなど苦労が偲ばれる。


<心光院>
岩倉具視幽棲旧宅から徒歩で南へすぐ。浄土宗鎮西派。正保2年(1645)の創建。開基は唯称房知空。約200年ほど前から尼寺としての歴史を受け継いでいます。
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       寺の全景。

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       門。

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            玄関までの庭。テッセンが咲いていました。

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(パンフレッドから転写)重文。本尊阿弥陀如来像。坐像で高さ153センチ。平安後期の作。寄木造り。漆塗りで黒茶色の光沢あり。一般的にはこの後に全金箔となるそうです。

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(パンフレッドから転写)重文。脇侍の観音菩薩(勢至菩薩を含む)。木造で江戸時代の仏師、康知の作。正座から今まさに立とうとしている跪座(きざ)、大和座り像。漆塗りで黒茶色の光沢あり。

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       (パンフレッドから転写)重文。いわゆる阿弥陀三尊。

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(パンフレッドから転写)迎接曼陀羅(来迎引接曼陀羅の略)。唯称房知空上人は老母の拝された仏来迎の様子を聞いて絵に描かれた三枚折の屏風にされた。
更に「白骨図」は残念ながら写真はないが、女性の死体が3体が掛軸の上から横たわり描かれ、上から順に、①死んで体内にガスがたまって死体が膨れている図、②干からびてウジがわく骸骨、③野犬や鳥についばまれている死体の図が描かれている。往生要素・六道絵の人道九不浄相と考えると更に白骨・灰まであるはずで掛軸として3幅あるのではと思う。涅槃図もあったがこれは一般的。
すばらしいお宝群に感激しました。


<得浄明院>
東大路通りを南下、知恩院の黒門前通りの華頂高校と短期大学の間を通って山門があります。
信州善光寺の京都別院として建立された尼寺。宮家ともゆかりが深い。善光寺同様に戒壇廻りができるようになっており、小生も久し振りに体験しました。真の暗闇です。戒壇を360度廻るわけであるが何とも不安なことでした。途中にカギ手があり感じたのはこれだけです。
いやいや、今回の目的は初夏一番咲きの一初(いちはつ)観賞です。アヤメ科の花でアヤメ類の中では一番早く咲きだすことから名づけられたと言われます。乾いた土にに生えるのが特徴で昔はかやぶき屋根に植え、屋根を締め付け、火災・台風から守ったといいます。
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       本堂。

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一初。アヤメ科としては少し小振りです。相国寺の北にある御霊神社の一初もきれいです。

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ドイツアヤメ(ジャーマン・アイリス)。ハナショウブ(花菖蒲)とは違い,乾燥した土地で栽培します。洋物ですので,華やかな品種が多くあります。オランダアヤメ(阿蘭陀菖蒲)は球根ですが,ドイツ菖蒲は根茎で,葉も花も大きく,花色も豊富です。


境内でこの付近に明智光秀の首塚があるとの案内を見つけ、行くことにしました。得浄明院を出て、白川に出るとすぐにあります。

<明智光秀の首塚>

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明智光秀の首塚。光秀は天正10年(1582)、山崎の戦いで秀吉に敗れ、近江・坂本城へ逃げる途中、農民に襲われ自刃、最期を遂げたと言われる。家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。

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       (写真を転写)昔の首塚風景。

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       (写真を転写)光秀公像と位牌。

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         餅寅横の石碑。「東梅宮 明智光秀墳…」。弘化2年(1845)の銘あり。

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「餅寅」。老舗の生菓子屋のお婆ちゃん、85歳で元気に現役です。光秀まんじゅう1個買って食べ、お茶をご馳走になる。近くの有名な門跡寺院青蓮院の茶菓子ご用達をしているそうでなるほどおいしい。

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琵琶湖疏水の白川沿いにあります。きれいな豊富な水です。少し下流に行けば子供・大人混じって水遊びしていました。


ここまでで、今回の春季京都特別公開の訪問は終わります。14ヶ所の案内がありましたが、年を増すごとに初めて訪れるお寺が少なくなって来て淋しい気もしますが、京都にはまだまだ多くの知らない名所があります。あっとのサプライズを期待してまだまだお寺巡りを続けたい。