言語という箱と中身のギャップ
「障害者」という言葉が使われるようになったのは、1960〜1970年代ということらしいです。
詳しいことは割愛させていただきますが、それから50年以上の時が経ち、その「障害者」という「言語」と、その「障害者」という言葉が含む意味合いが、大きく変容しているのは間違いありません。
しかしながら、この「表現している内容」は大きく変わっているのに、「障害者」という言葉は変わらずに使われ続け、もはや定義云々はさておき、この言葉における概念やイメージは人それぞれと言えるほど多角化していると感じます。
また、「障害」という「診断」も、年々「〇〇障害」という言葉が生まれ、もはや何が障害と表現されているのかも、これまた定義云々抜きに、人によって大きく意味や概念が違ってきているように感じます。
ここでは何かの良い悪いをジャッジするつもりは全くなく、単なる個人的な感覚なのですが。
「診断(〇〇障害)」というものが、何か「うまくいかないこと」「うまくできないこと」「頑張らなくてもいいこと」などを「正当化するため」に存在していると捉えている人が、案外、かなり増加してきているのではないかなと感じています。
また、「診断」というものが、数値化されたものやチェックリストで判断されるため、「目に見えないもの」「数値として現れないもの」などが消し去られてしまい、とても偏ったものになってきているようにも感じます。
「障害者」という言葉も、これだけ中身が大きく変容してきている中、外側の「障害者」という箱だけは変わらず、色々なものと大きく乖離してきていると感じます。
現代の構図では、「経済活動が困難な人」というラベルを貼っているだけではないか?という疑問も抱きます。
もちろん、言葉を変えればいいとか、診断をもっと厳格に行えばいいとか、そういう単純で一方的な話ではなく、しかし、「障害」や「診断」、「障害者」という言葉を、今いちど問い直し、捉え直すことをしないと、このまま偏りと滞りが増大して、どんどんとおかしな世界になっていくだろうなと感じています。
確実にあるのは、「このままでいいの?」という危機感と違和感。