今日は仏教から脇道にそれたついでに、「卑弥呼と仏教」において誤った事例を提示した「倭人の二倍年歴」をご紹介してみたいと思います。

まずはこの魏志倭人伝における「注釈者の裴松之(はいしょうし)の注記(本文の意味を理解させるために注を書き加えること)」にご注目ください。

 其の俗、正歳(せいさい)・四節(しせつ)を知らず。但、春耕(しゅんこう)・秋収(しゅうしゅう)を計りて年紀と為す。

現代語訳:倭国の慣習では、中国が年を刻んでいる正月と暦の上の四季を知らない。ただ、春の耕作開始と秋の収穫時期をはかって、それぞれを1年としている。

この注記が魏志倭人伝のどの個所に付されているのかというと、「その人(倭人の)寿考(寿命)、あるいは百年、あるいは八、九十年」のほぼ直前です。

要するに注釈者である裴松之は、倭人の異常なほどの長寿に対して、「これは二倍年歴だからですよ」と注釈を付けたということですね。

 

ちなみに人口問題研究家の小林和正氏によると、15歳以上に達した者の平均死亡年齢の時代変遷は、次のようです。
縄文時代: 男31.1歳/女31.3歳
弥生時代: 男30.0歳/女29.2歳
古墳時代: 男30.5歳/女34.5歳

室町時代: 男35.8歳/女36.7歳

江戸時代: 男43.9歳/女40.9歳

 

さて、魏志倭人伝の注記より二倍年歴なる概念を最初に導き出されたのは、古代史研究の第一人者である故・古田武彦氏ですが、氏はその淵源をフィリッピンの東にあるパラオ諸島に求めています。なぜパラオなのでしょうか、調べてみましょう。


パラオ パラオ

パラオの民族学といえば、昭和4年(1929年)から15年間にわたって島民と生活を共にしながら、パラオの民族・文化を調査・研究された土方久功(ひじかたひさかつ)氏が何と言ってもその第一人者でしょう。

この土方氏の著作集第一巻「パラオの社会と生活」によると、パラオの暦はおよそ次のようです。

パラオ語にあっては、「年」をラックと呼び、「月」をブイルと呼ぶが、ラックは六ヶ月から成って居り、この云わばラック半年が二度めぐって完全な一年をなすのであって、前半年は丁度東風季節に当たるのでホゴス(東)と呼ばれ、後半年は西風期にあたるのでゲバルヅ(西)と呼ばれる。

一月、 ツムル

二月、 マダラップ

三月、 ヘリヅ

四月、 タオフ

五月、 オルゴードル

六月、 ヘイヤフ

このように、パラオでは六ヶ月を一年としていますから、十二ヶ月で二年となり、確かに二倍年歴となっていますね。

このパラオの暦は少なくとも土方氏がパラオに滞在していた昭和19年(1944年)までは現地の人々に使用されていたということです。勿論現在では私どもと同様の暦を使用しているようです。

なお、日本における二倍年歴は案外、お中元やお歳暮、あるいは春祭りと秋祭り、祈年祭と新嘗祭などにその痕跡をとどめているのかも知れません。