今日は、前回にも触れた『宋書』 に出現する倭国傘下の国々を訪ねてみましょう。次のような登場の仕方をしています。

(順帝の昇明二年~478年),興(こう)死して、弟の武(ぶ)立ち、自ら使持節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍の倭国王と称す。

 

これを見る限り、この当時には百済や新羅も倭国の支配下にあったことが伺えますね。しかし百済・新羅についてはほぼその領域が歴史的に明らかなので省略し、その領域が曖昧な任那・秦韓・慕韓について追及して見ることにいたします。


この三国のうち、諸々の問題をかかえている任那は後に触れることにして、その前に秦韓・慕韓を訪ねてみることにしようと思います。

先ずは秦韓ですね。
韓伝

 辰韓は馬韓の東に在り。其の耆老(きろう~その地の老人たち)、世に伝えて、自ら言う、古の亡人(ぼうじん~亡命の民)、秦(しん)の役(労役)を避けて来りて韓国に適(ゆ)き、馬韓其の東界の地を割きて之(これ)に与うと。〈中略〉今之(これ)を名づけて秦韓と為す者有り。始め六国有り、稍(ようや)く分かれて十二国と為る。(『三国志』・韓伝)



これで明らかなように、秦韓とは後に新羅を名乗る辰韓のことだったのです。辰韓人の大半が、始皇帝の秦からの亡命の民であることから秦韓ともいっているということですね。



ということは新羅に併合されていない辰韓の国が、この5世紀の段階でまだいくらか残存していたということになります。その残った数カ国がこの倭国傘下の秦韓だということです。
三国

さてそれでは、次の慕韓に移りましょう。この『宋書』に至るまでに、慕韓などという国名は全く出現していません。なぜなのでしょうね。



慕韓の「慕」には「したう・なつかしく思う」などの意味があります。そうすると慕韓とは「韓をしたう国」、あるいは「韓を懐かしく思う国」ということになります。



しかしこれだけでは、『三国志』韓伝にある馬韓・辰韓・弁韓のうち、どの国がこの慕韓に該当するのかよく分かりませんが、消去法で試みると分かりそうですね。



馬韓はすでに百済に変身していますし、秦韓はかつての辰韓の一部であって、未だ新羅に併合されていない国々であると。

となれば後に残る弁韓の国々が慕韓ということになるようです。ところが『三国志』韓伝によれば、弁韓(弁辰とも称す)の国々は辰韓の国々と雑居状態にあるという。

ということは、その雑居状態にあった領域が倭王の言う秦韓であり慕韓であったということになりそうですね。つまり、恐らくはこういうことでしょう。

「辰韓領域の南部における弁辰国・辰韓国雑居地帯の一定部分を、一方は秦韓と称し、もう一方は慕韓と称した」と。



いずれにせよ、その領域は添付の地図などでおよその見当をつける以外にないですが、

『宋書』にハッキリと記されている国ですから、あるいは中国がその国の存在を認めているということですから、5世紀段階に朝鮮半島の南部にあった国であることは間違いないでしょう。



さて今日はこの辺りまでとして、次回は残る任那のお話といたしましょう。