文武が死ぬと、その子の阿用(あよう~元明・天智の娘)が位を継いだ。そして元明が死に、その子の聖武(しょうむ)が継いだが、そのとき、年号を白亀(はくき)と改元した。



開元年間(713~741年)の初め、粟田は再び来朝し、唐の諸々の儒者から経書を学ぶことを請うてきた。

そこで玄宗皇帝(712~756年)は四門助教(下級貴族や庶民の子弟を教育する四門館の副教官)の趙玄默(ちょうげんもく)に命じ、鴻臚寺(こうろじ~外国人接待所)において指南役とさせた。


 粟田は趙に対し、大幅な布を入門料として献上した。帰国に際しては、唐朝からおくられた賞物を、全て書物に換えて持ち帰った。
その粟田の副使である朝臣仲満(なかまろ~阿倍仲麻呂)は中華を慕い帰国することを拒否した。彼は姓名を中国風に変えて朝衡(ちょうこう)と名乗り、左補闕(さほけつ~天子の諫言役)や儀王(ぎおう~玄宗皇帝の第二子)の学友を歴任し、広く知識を備え、長期間滞在したのちに帰国した。



聖武が死んだあと、その娘の孝明(孝謙~こうけん)が継いだ。改元して天平勝宝(てんぴょうしょうほう~749年)とした。
 天宝十二年(753年)、朝衡がまたもや来朝し、上元年間(760~762年)に、左散騎常侍(ささんきじょうじ~皇帝の顧問官)とか安南都護(あんなんとご~ベトナムの軍政官)に抜擢された。
 その当時、新羅が海路を封鎖したので、日本は航路を改めて明(めい)州や越州(いずれも浙江省)より朝貢することとなった。



 孝明が死んで、次に大炊(おおい・淳仁~じゅんにん)が継いだ。その淳仁が死んだあとは、聖武の娘の高野姫(こうやひめ~称徳)を王とした。その称徳が死んだあとは、白壁(しらかべ・光仁の諱)が継いだ。
 建中元年(780年)、日本国の使者の真人興能(おきよし)が、その国の産物を献上してきた。真人とは、恐らく官名を氏(うじ)とした者だろう。

興能は書に堪能で、その使用している紙は蚕の繭(まゆ)に似てつやがあり、唐人でそれを知っている者はいなかった。
 貞元の末(805年ごろ)、その国の王を桓武(かんむ)といい、使者を遣して来朝してきた。その使節たちの中の学士である橘免勢(たちばなのはやなり)と仏僧の空海(くうかい)は、そのまま唐に残留して学業を習得したいと望んだ。それから二十年余りをへて、その国の使者の高階眞人(たかしなのまひと)が来朝して、免勢らと一緒に帰国することを望んだ。そこで憲宗皇帝は彼らの帰国を許可した。

桓武の次は諾楽(なら~平城)が王位を継いだ。その次は嵯峨(さが)。その次は浮和(ふわ~淳和)。その次は仁明(にんみょう)である。その仁明は開成四年(839年)にまた唐に入貢してきた。

その次は文德(もんとく)、その次は清和(せいわ)、その次は陽成(ようぜい)。その次は光孝(こうこう)、その光孝の即位は光啓元年(885年)に当たっている。
 日本国の東海の島嶼の中には、邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たね)の三つの小国の王がいる。それらの島国の北は新羅と海を隔(へだ)て、その西北は百済、その西南は越州に当たっている。(方角的に、九州以南でなければ照合しない)

その地(この部分は日本全体を指しているのかどうか、判然としていない)では絹糸や綿を産し、また変わった珍しいものがあると云う。