日本国は倭国の別種である。(だから、別国である)その国は日の出る所に近いので、日本という名称を国号としている。

あるいは、このように言っている。「倭国はその名称が雅美でないことを嫌って、日本に改めた」と。また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。

その国人が唐朝廷に参上した時は、その多くが自国を広大と自慢し、真実をもって対応しようとしない。従って中国側としては、彼らの主張するところに疑念をもっている。

また言うには、「その国の領域は東西南北がそれぞれ数千里で、西境と南境はいずれも大海に達し、東境と北境にはそれぞれ大山があって限りとなっている。その大山の向こうには、彼らに従わない民族の国(それを毛人と称している)がある」と。

則天武后の長安三年(703年)に、その国の大臣である朝臣真人(あそんまひと~粟田真人)が来朝してその国の産物を献上した。朝臣真人とは、ちょうど中国の戸部尚書(こぶしょうしょ~財務関連の行政の長官)のようなものである。彼は進德冠(しんとくかん)を冠(かむ)り、その頂(いただき)は花形で、四枚の花びらを垂れさせている。その身には紫袍(しほう~紫色のマントのような服)を着用し、帛(はく~白い絹布)の帯を腰にしめている。

眞人、経史(けいし~経書〈易経や詩経など〉や史書)を好んで読み、文章を綴ることもでき、ものごし穏やかでみやびていた。則天武后は、彼を麟徳殿(りんとくでん)に招いて、宴(うたげ)を催し、司膳卿(しぜんけい~官名)の官を授け、留め置くことなく本国に帰還させた。

玄宗皇帝の開元(713~741年)の初め、その国は再び使を遣わして来朝した。その機会に儒士(じゅし~儒学を教える人)から経書を教えてもらいたいと願い出た。そこで四門助敎(しもんじょきょう~大学の助教官)の趙玄黙(ちょうげんもく)に命じ、鴻臚寺(こうろじ~外国関係の事務)において敎えさせた。

そため日本の使者は、玄黙に対して闊幅布(かっぷくふ~広幅の布)を贈って束修(そくしゅう~入学・弟子入り)のお礼(れい)とした。日本人はその布を「白亀(はっき)元年(白亀の年号はない、霊亀の誤りか・715年)の調布(ちょうふ~税としておさめる布)」というが、中国人はそれを偽りではないかと疑っている。

その使者は、中国でもらった賜り物の全てを投じて、書籍を購入し、海を渡って帰国した。その時の副使であった阿倍仲麻呂は、中国の国風を慕うがあまり、そのまま留まって帰国しなかった。その姓名を中国風に朝衡(ちょうこう)と改名し、唐朝に仕えて左補闕(さほけつ~天子への諫言役)・儀王友(ぎおうゆう~天子の子供の友だち役)を歴任した。衡(こう~朝衡)、京師(けいし~唐の都)に留まること五十年、書物を愛し、自由に故国へ帰らせようとしても、留まって去ろうとしなかった。玄宗皇帝の天宝(てんぽう)十二年(753年)、日本はまた使者を遣して貢献してきた。 上元中(760~761年)、粛宗皇帝は衡阿倍仲麻呂)を抜擢して左散騎常侍・鎮南都護(ささんきじょうじ・ちんなんとご:ベトナムを鎮撫する総督)に任じた。
 徳
宗皇帝の貞元二十年(804年)、日本は使者を遣して來朝させ、学生(がくしょう)橘免勢(たちばなのはやなり)、学問僧の空海(くうかい)を中国に滞在させた。

 元和元年(806年)、日本の国使判官・高階眞人(たかしなのまひと~遠成〈とおなり)のこと)が憲宗皇帝に上奏して言うには、「前回の学生たちは学問などが、どうやら身に付いたようなので、本国に帰えることを望んでいます。そこで臣(私~高階)と一緒に帰らせて頂きたい」と。皇帝は、その願いを聞き入れた。
 文宗皇帝の開成四年(839年)、日本はまた使者を遣して貢献してきた。