次に、この史料も重要です。

. 漢志:・・・東、帶方等縣,屬樂浪郡。・・碣石,禹貢之碣石也。杜佑以為此碣石在高麗中。佑曰:碣石山,在漢樂浪郡遂城縣,秦長城起於此山。今(唐代)驗長城東截遼水而入高麗,遣址猶存。平壤城,高麗國都也・・南臨浿水。杜佑曰:高麗王 自東晉以後居平壤城,即漢樂浪郡王險城。『資治通鑑』卷第一百八十一煬皇帝上之下・大業8年に関する胡三省の注記)

胡三省(こさんせい):1230~1287年。南宋末期の歴史家 で、『資治通鑑』の研究に尽くして、『資治通鑑音注』・『通鑑釈文辨誤(釈文弁誤)』という注釈書を著した。

実は、こういう史料もあったんです。森を見せないで、木の一部だけを見せてどうだと迫る。余りフェアとは言えませんね。(^-^)

さてこのB史料の内容ですが、杜佑(735年~ 812年)という唐代の歴史家によれば、「禹貢」の碣石は今の高麗の中にあった。従って、碣石山はかつての楽浪郡の遂城縣にあり、秦の長城はこの山からスタートしている。今、杜佑が考えてみると長城の東はいったん遼水で断たれているが、その先は高麗にまで達している。その高麗の中に長城の遺跡が今もなお残っていると。

また、平壤城は高麗国の都で、高麗の王は東晋より後には、その平壤城に居り、それはすなわち、漢代の楽浪郡の王険城であるとも明記しています。 

 しかしこの杜佑も、なぜそうなのかと言う意味での文献史料は提示せず、その裏付けとしては「高麗の中の遺跡」というにとどまっているようです。また別に巷間では「碣石とは碑石のことで、各地に碣石山がある」という見解もありますが、これもまた証明史料の提示はないようです。

 では碣石山の場所である万里の長城の東端がどの辺りなのか、資治通鑑 』の杜佑の証言以外に、ちゃんとした証明史料はあるのかという話になってきます。

.秦已(すで)に天下(あわ)せ,乃蒙恬をして三十萬の衆にとして、・・・長城を築き,地形,用ひて險塞(けんさい)をす。臨洮(りんとう)よりこり,遼東,延袤(えんぼう)萬餘里。(『史記』蒙恬列伝)



 秦の時代における万里の長城はWikipedia などによれば、「現在の物よりかなり北に設置されて、その東端は朝鮮半島 に及んだ」と言われてはいますが、上記の史料に長城の東端が朝鮮半島まで及んだとは記されていないようです。

ちなみに、現在、万里の長城の最東端とされている虎山長城(遼寧省 丹東市 寛甸満族自治県 虎山鎮虎山村:丹東市から鴨緑江の上流に向かって約20㎞の場所)は、後の明代の遺構とされています。

そこで、この暁氏の主張の①に関しては、すでに『資治通鑑』の記事で、その誤りは証明されているようなものですが、だからと言って無理に結論を急がないで、しばし保留としておきましょう。