以前に、私のブログ記事「女王国への道~奴国と女王国⑧」の帯方郡治(帯方郡の中心部)に関して福岡華子氏より問題提起をされています。(アドレスは下記)

http://ameblo.jp/teras0118/entry-11991402152.html

その内容は、「女王国への道の出発点である帯方郡治を、韓国のソウル付近と比定しているのは決まりごとなのかどうか」と問われているのです。

私は今までの自分の著書などにおいて、帯方郡治について証明史料を付したことはありません。なぜなら、それは常識でしたから。ところが、そうではないのではないかと。

とは言え、私も従来の説を鵜呑みにしているのではなく、それなりに調べ、「帯方郡治=ソウル付近」を、主に次の史料をよりどころにして比定しています。

. 郡より倭に至るには海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍ち東し、其の北岸、狗邪韓国に到る、七千余里。(魏志倭人伝)

. 韓は帯方の南に在り、東西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。方四千里可(ばか)り。(『三国志』魏志・韓伝)

方:その領域の凹凸をならして正方形にした場合の一辺。

 まず当時の韓の領域がほぼ正方形(今の韓国もほぼ正方形)であったと仮定し、到達地点の狗邪韓国(釜山付近)から対角線を引いて韓の西北界を群山(クンサン)あたりと見なしました。

韓伝において、韓は「方四千里可り」とされているので、その対角線の距離を計算すると約5600里(群山→釜山)となります。

七千余里(帯方郡治→釜山)の余里を500里まではいかないという意味で、400里と見込んで7400里とすると、残りは「7400-5600」で1800里となります。

これに「短里の一里:約77メートル」をかけると約140キロとなります。

群山から水行で海岸に沿って140キロ北上すると、その地点は水原(スウオン)辺りとなります。つまり、ソウルとは指呼の間ですね。

しかし、このような証明の仕方では福岡氏に納得して頂けませんでした。皆さんご承知のように、帯方郡は建安中(196~220年)に当時、遼東郡の太守であった公孫康が、楽浪郡の屯有県以南を分離して設置した郡です。

ですから帯方郡と楽浪郡は当然のことに接しているわけですが、驚くことに「その接している相棒の楽浪郡がそっくりそのまま、遼東にあった。つまり、楽浪郡の中心部が平壌とされていることは間違っている」という説が今、提唱されているのです。

 そうすると、従来言われていた帯方郡の位置も大幅に変更を余儀なくされるというわけですね。

 楽浪郡遼東説の提唱者は、暁 美焔(Xiao Meiyan)氏で、主に6点ほどの引用文を提示して主張されています。そのタイトルは「虚構の楽浪郡平壌説」で、詳細は次のサイトを検索すれば見られます。  http://www.smjsearch.com/yamatai/rakurou.html

福岡華子氏によれば、暁氏の説は山形明郷(あきさと)氏の『卑弥呼の正体~虚構の楼閣に立つ「邪馬台」国 』(以後『卑弥呼の正体』と略称する)という本にインスパイアされているとか。ですから、私の反論は実質的に両氏に対するものとなります。

 そこでこれから、その暁氏が「楽浪郡遼東説の証明」として提示している引用文などの一点一点を順次検討し解明して、その黒白をハッキリとさせてみようと思います。

楽浪郡や帯方郡が、どこに飛ぼうがどうなろうが、誰もが納得できるようにうまく説明できるといいのですがね。o(^▽^)o


ただし、現時点で完結していません。しかし、私自身にこの先何が起こるか分からない状況です。ですから、あら削りでもあるしフライング気味でもありますが、とにかくスタートすることにしました。

少々、マニアックですが、皆様にもお付き合い頂ければ幸いです。