上國料由紀子(かみさん)「生まれてくれて、ありがとう」

上國料由紀子(かみさん)「生まれてくれて、ありがとう」

好きなことを見つけられれば、人生はそれでいい。

私が小学二年生の冬。
夜中に咳が出て、止まらなかった。
父は私を背負って、母と、タクシーで救急病院に向かった。
小児喘息、ということだった。

父の勤務は、朝9時から翌日9時まで、のように、丸一日の勤務時間で、途中仮眠や休憩がある。
勤務日の翌日は非番、といい、その翌日が休日。それ以外にも、夜勤や、日勤、があった。
概ね、三日に一回、いないのだ。

その、一日勤務の日は、母と姉妹の三人だったので、母は、なんだか明るいのだった。独身時代の話を、面白おかしく、聞かせてくれたりした。
勉強がキライだったから、高校には行かなかったこと。けれども祖父が専門学校くらいはいけというので、経理学校には行っていたこと。
友達とヒッチハイクにいって、男の人とドライブしたこと。母は太目で、胸が大きかったため、ちょっと面白いクセがあり、自分でときどき、胸をしたから支えるように手を添えてしまうのだった。ドライブで筑紫耶馬溪(那珂川上流)に行ったとき、ちょうどその胸を支えているところを、男性から、写真に撮られたこと。
実家が火事で焼けたので、もうその写真は残っていないが、母は楽しそうな顔をしていた。

父の勤務の日は、家はなんだか、明るかった。
土曜や日曜に父がいないと、親子三人で、一緒にホットケーキなんかを作ったりしていた。
自宅から歩いて10分ほどのところに、アピロス、という大型スーパーがあった。ユニードの商業施設で、後のダイエー、今でいう、イオンのような感じのスーパーである。そのアピロスは、店の入り口まで階段があって、途中に広場があって、そこで、戦隊ものの子供向けのショーなどをやることがあった。夏は、屋上で櫓を組んでお祭りがあることもあった。
佐賀にいたころは、そんな大きなスーパーはなかった。個人商店のようなところが多かった。
アピロスは、一階は食料品売り場だったが、二階に洋食のレストランがあった。本屋さんもある。ゲームセンターも。
父がいない日は、母は、よくそこに買い物に連れて行ってくれていた。たまにレストランでホットケーキを食べさせてくれたり、一階のソフトクリーム屋さんで、食べさせてくれたりした。私は、ソフトクリームより好きだったのが、フローズンヨーグルトで、さっぱりして美味しかった。

DV家庭というと、暗くて重たいだけかというと、全然そうではない。
多くの人は、哀しそうな顔をするけれど。
暴力のある家庭が。毎日、暴力で埋め尽くされてるわけではないのだ。

辛い日々もあるけど、笑顔の日も、ちゃんとあるのだ。

ある日のこと。小学校3年ごろ。
学校から帰ると、居間で、母は、飲み残しの牛乳瓶を「汚か~。お父さんののんだあとやけん、捨てにゃ」と、指先だけで牛乳瓶をつまむようにして持って、キッチンに行って飲み残しを、捨てていた。
父の触ったものは、汚い、父のいないときは、そう言っていた。子供の私には、父が汚い、の意味がよくわからなかった。
福岡の国鉄の寮は、3LDKだった。玄関のすぐ左横が父の部屋で、その奥が私たち姉妹の部屋だった。
玄関から右手の奥が、LDKで、その横に和室があった。
母は、父と同じ部屋で寝るのを嫌がって、リビングの隣の和室で寝ていた。
私と姉は、二段ベッドで、姉が上に寝ていた。
ある日の夜中。父は、子供部屋に来た。私を抱きかかえて、自分の寝室に連れて行くのだった。そして、隣で寝かせた。
眠れない。だって、夜中に抱きかかえられるのだから、起きてしまう。
父は、たびたび、夜中に寝室へ連れてゆくのだけれど、全く眠れなかった。
それから私は、夜中に、喘息発作を起こすようになるのだった。

続く。