私は小学生の頃からその当時世田谷に30数個あった子ども会に入り、手作りの紙芝居、人形劇、ペープサートなどを作っては、ガ

リ版刷りの印刷を地元の小学校などに配布して地区会館などで年に数回地域の子どもたちにお楽しみ会のようなものを催していました。

それは大人がお膳立てしてするものではなく、企画、宣伝、実行全て子どもたちがやるものでした。大人は背後で子どもを支え、見守るという自治の精神を育む仕組みがそこにはありました。

高度成長期の中で地域にあった空き地は1つ1つビルに姿を変え、子どもたちの溜まり場であった駄菓子屋も一緒に1つ1つ姿を消して行きました。

子どもの縦社会も形を変えガキ大将が年下の子どもに教えていく子どもの社会のあり方も変わって行きました。

娯楽といえばまだテレビのチャンネルがいくつか、ゲームはもちろんまだ姿を表していない当時、そんな拙い催しに200人近い子どもたちがひしめき、子どもたちの劇を見る瞳がキラキラと輝いていたことを見たことが私の原点です。

新宿高校を卒業して短大に進みましたが、その頃ちょうど「3年B組金八先生」が始まり、日本中に校内暴力の嵐が吹き荒れました。

私の母校でも同じようなことが起こり、地域でボランティア活動をしていた私は、地元の大人たちが彼らのために作った「勉強会」で彼らを教えられる機会を与えられました。

そこで初めて自分自身の意思ではなく、育った環境によってもたらされる子どもたちへの学校教育の機械均等でない不平等を知りました。

彼らの校内暴力の背景には家庭環境やそれに対応しきれない学校教育の問題点がありました。私自身の小さな力で、「学びたくても学べない子どもたち」に学びと自分の存在を少しでも肯定できる場を作ろうと21歳の時に「寺子屋」という学習塾を始めました。

今年で39年を迎えます。

ここ数年不登校児童が年に1〜2割の勢いで増加しています。

コロナ禍に於いてそれはさらに加速しています。

子どもが育ち、その子らしく育って生ききたいという思いはいつの時代も変わらない人間の本当にささやかな願いだと思います。数年前に始めた子ども食堂は昨年から「寺子屋弁当」という形になり、地域の商店街の飲食店と連携して飲食店から惣菜を購入し、それを弁当のおかずに入れて低価格で販売しています。

時は移っても子どもたちの大切な芽を育むという使命はどんな大人にもいつの時代にも課せられていると思います。

不登校児童のための学校以外の勉強の場も始めました。時代に沿った教育、子育て環境を地域の人たちと、行政とこれからも一緒に作っていこうと思っています。