みなさんおはようございます~(*^^*)

アップわすれてました~

 

日本の文字はここから始まったと言われる場所です

松原市 王仁の聖堂址です~

 

ずうっとずうっと昔の日本には文字がなかったそうです

そこで目で見たものは口で読み、伝え、

耳で聞いたものは記憶して誦み習っていた

大和王朝の教育から飛躍して文字による

教育へと飛躍した転換をはかった場所です

 

現在は弁財天を祀るお堂です

応神天皇の時代には、百済の国王、昭古王(しょうこおう)は

大和の国へ色々な文化の貢ぎ物をしたそうです

そうした中で王は横刀と大鏡、牡と牝の

馬各一頭に使者として阿直岐(あちき)を

貢ぎ物として応神天皇へ贈られたそうです

 

天皇は大層お喜びになり、阿直岐をこの二頭の馬の

お世話係として任務をお与えになりましたが、

大層優れた博士で教典を深く学び修めた人であることを知り、

馬の世話係任務のかたわら、四番目の皇子である

「うちのわかいらつこ」の学問の師と

なって欲しいとおたのみになったそうです

 

皇子が阿直岐から学ぶ勉学の深さ、

阿直岐の学問の高さをご覧になり、

「馬の貢ぎ物の使者としてやって来た阿直岐が

これほど優れた博士であるならば、百済の国の人々は

さぞかし学問に秀でた人が多い事であろう」と

お考えになったそうです

 

「阿直岐は立派な博士であるが、百済には

阿直岐のような優れた博士がたくさんいらっしゃるのか」と

お尋ねになりましたところ、阿直岐は即座に

「我が国には、人格も学問も共に秀でた学者が

沢山いらっしゃいます

その中でも王仁(わに)と申す者は多くの秀でた

学者の中でもひときわ優れた博士でございます」

とお答えになったそうです

 

天皇は大層お喜びになり荒田別巫別

(あらたわけかむなきわけ)を百済にお使わしになって、

翌年の春二月に王仁博士は大和の国へ来られたそうです

この時王仁博士は論語十巻と千文字一巻併せて

十一巻をおみやげに持ってこられたそうです

 

この頃はまだ日本には文字が確立されて

いなかったそうです

そこで王仁博士は文字による学問を導入して

人々に広く文字による学問を広めることは

大切な事であるとお考えになり丹比の国へ

学問所おつくりになったそうです

それが松原市新堂にある現在の聖堂池の

場所だと言い伝えられております

 

まあどこにでもこのような伝承がありますよね

見付けると楽しいですよね~