愛媛マラソンには、昨年に続き2度目の参加でした。

 

 2024の結果は 

1'33"-26'15"-25'45"-26'00"-25'55"-26'14"-27'10"-28'04"-29'11"-12'10" 3:48'22"(av5'21"/km)

 とまぁ、なんとかサブ4は死守といったところでした


 

 ちなみに2023の結果は

1'30"-25’28"-25'13"-25'25"-25'10"-25'27"-25'10"-26'25"-28'50"-12'27 3:41'11"(av5'11"/km)

 でした。

 

 それぞれの心拍数とペースの図を見ると、2024は全般的にスピードが落ちていることに加えて、2023は30㎞まではペースを維持できていたのに、2024は25㎞あたりでがっくり来ていることがわかります。

 また、折り返してからの心拍数の急上昇と終盤の心拍数のがた落ち、がた落ちはポラールのエラーかと思うのですが少し気になります

 折り返してからの向かい風がきつかったことは事実ですが、明らかに走り込み不足だと思います。

 25㎞前後のスロージョグは何度か繰り返しましたが、キロ6分半~7分ペースに終始 レースペース+20~30秒で30㎞といった練習まで到達できませんでした。

 練習不足はうそをつかないとはよく言ったものですね(;^ω^)

 

 天候は昨年と違い、スタートの待機時は小雨交じりでしたので、モンベルのULジャケットを着た上に、ビニール雨具を着て待機。 スタート後、ビニール雨具は10㎞あたりまで、ULジャケットは15㎞あたりまで着て走りました。 当初はビニール雨具だけで、スタートして体が温まったら雨でもULジャケットはいらないかもと思っていました。 

 15㎞で脱いで腰に巻き付けて走っていた時は、「無駄な荷物になっちゃったな 雨具を捨てれば身軽なのに」と思っていたのですが、折り返すにかかると向かい風に。 ペースも落ちてきているので体が冷えてくるうえに強風で体温が奪われ、体がこわばるような感じ 

 給水所でULジャケットを着るとようやく一息  走力がピークのころのようにはいかないことを痛感、いろいろなケースを想定して持ち物は多めにと思いました。

 30㎞で競歩のリレー選手に追いつかれてからは、香川の琴平に向かう特急に間に合うことだけを考えていました(;^ω^)

 なんとかフィニッシュした後は荷物を受け取り、着替えをする前に地元高校生のシャッターボランティアさんにお願いして一緒に記念撮影  想定はフィニッシャーが自らボードを持ってかもしれませんが、せっかく?なので一緒に収まっていただきました。  

 

 

 昨年に続き、スタートの案内から沿道の応援、フィニッシュ後のフォローなど、たくさんの地元の高校生ボランティアの皆様の笑顔、そして沿道の地元の皆様の声援があふれる素敵な大会でした。 

 来年は抽選を通ればの前提となりますが、また、走りに行きたい素晴らしい大会です。 

 愛媛県の皆様、一緒に走ってくださったランナーの皆様 ありがとうございました。

 

【亡父の思い出⑨】

 なんとしても父を地元の病院にと思ったものの、地元で受け入れてくれるところは容易には見つかりませんでした。父が入院している赤十字病院は青森県の地元にもありますが、それぞれが独自に経営しているため、申し訳ないが転院などの調整はできないとのことでした。 

 仕事が終わった後や昼休みに電話帳を見ながら受け入れてもらえそうなところに電話をするしか手立てはないのですが、「まだ入院中なのですよね」で終わってしまい、手詰まり感。さて、どうしたものか と思っているうちに1か月弱が過ぎ、病院との今後の相談や母親の付き添いの相談のために、諏訪に向かうことにしました。

 父親が倒れたときには、在来特急、新幹線、中央本線と乗り継ぎましたが、これから何年父親の介護が続くのかと思えばお金はいくらあっても困りません。 というか少しでも倹約が必要なわけで、諏訪から戻った時と同様、青森から夜行バスで東京 東京からも高速バスを利用することに。

 母親からは「同室の方々にリンゴの王林をお土産に持ってきて」と言われ、あまり深く考えず「王林」を持っていきました。

 母親からは、遠く離れた青森から出稼ぎに来ていて諏訪で倒れたことなどから、同室の患者のご家族の皆様からは親身に接していただき、ご家族に地元名所をご案内いただいた話も聞いたときは感謝の気持でいっぱいでした。 お土産のリンゴを同室のご家族にお渡した後に「あ、長野ってリンゴ王国だよな」と気づいたときは、すでに遅しでしたが(;^ω^)

 タレントの「王林」さんをお見掛けするたびに、青森と諏訪を思い出します。

 また、1か月ぶりに見る父親は顔色はよいのですが、いろいろ声をかけても、目をつぶったり開けたりはするものの規則性はなくどこまで自分の声などがわかっているのだろうと付き添いもろくにしないくせに親不孝なことを思ったのでした。   

 諏訪の病院に行くにあたり、気になっていたことが到着初日にきつい言葉を投げかけられた付き添いの方のことでしたが、病室に自分が入った時には付き添われていたご高齢の女性のみでした。 母親に話を聞くと付き添いの女性の方はかなり重たい下肢静脈瘤をお持ちだったようで、それが悪化し出血、別室に入院されているとのことでした。 

 母親によると車いすで介助してもらいながら、本来付き添っていたご高齢の女性のところに来ているとのこと。 

 また、今までのよう周りと触れ合うことを避けたり、孤立するような振る舞いもなくなったとのことでした。

 母親によると「おらが一人で無理に頑張らなくて、周りの人に迷惑かけますがよろしくお願いします って言ったら、それこそ、病人抱えて大変な人たちも助けてくれたのを見たんだからだべかなぁ」とのことでした。

 その時は、不遜にも「そんなもんかなぁ」と思ったのですが、その後、長野県の皆様のすばらしさを実感することになるのでした。

 同室の方々にごあいさつしたのち、主治医、婦長と面談しました。

 面談の内容は「脳梗塞にかかる症状は固定化しつつあり、ご事情もあるでしょうから、常に親族が諏訪市にいる必要はない 一方でこのまま症状に変化がなければ4月をめどに退院(転院)をしていただくことになる。 転院先は、以前もお話しした通り、ご家族で探していただくことになりますが、転院先までの移動などはできる限りのお手伝いをさせていただきます」とのことでした。

 転院に関する部分だけを見れば冷たいような気もしますが、それ以外はこちらの事情を最大限考慮してくださったいると思いました。

 一方で、転院先の移動までのできる限りのお手伝いの中身がわからなければ長野の諏訪から青森までかなりの距離の移動の段取りもできません。 そもそも医師が考える移動方法がどうなのか聞いて見たところ、「病院の救急車で青森の病院まで搬送かなと思っています。ただ、一日で移動は負担が大きいので、途中で一泊する病院などを確保する必要があります」とのことでした。

 それを聞いた自分が思ったことは「青森の転院先のほかに途中でケアしてもらう病院まで確保するってハードル高いな そもそも転院先が確保できてないのに」でした、、、

 転院先は決まっていませんが「先生は、飛行機で搬送したご経験とか飛行機使う選択肢ありませんか? 地元の病院はまだ見つかりませんが羽田~三沢便はあるんです」と主治医にお話ししましたが、その時は「飛行機での搬送は誰でもできるわけではないと思います 陸路での搬送を考えていきましょう」とのことでした。  

 確かに飛行機での搬送はそれなりの人とか一刻を争うとかじゃないと駄目なんだろうな と思いつつ、救急車で長野から青森まで走るイメージが湧かないまま、諏訪から高速バスを乗り換えて雪深い青森に帰ったのでした。

 多分続きます