酒:ジョニ黒(ハイボール

つまみ:ローストポーク

 

 

焼肉のたれで好きなのが、創味のニンニクばりばりにきかせたやつだ。

北海道にはほぼ流通していない。

すきやきのたれとか、濃縮だしみたいなのはあるのに・・・

 

関西に行ったら購入して帰ってくるが、

近いものはないかと試すつもりで焼肉のたれを買うときがある。

 

先日そうした気持ちであらたにダイショーのニンニクを効かせた焼肉たれを買った。

ダメだった。甘い、甘すぎる。

なぜこうも甘い焼肉のたれが多いのか。まぁ、赤身が多い肉にはあうかも・・・

 

ローストポークのような赤身肉に合わせて消費しようと思ったので、

今日はローストポークにかけてみた。

 

あまいなー・・・ちょっと続かないかも・・・合わないことは無いけど・・・

 

 

さて、今日はキリスト教と仏教の話。

キリスト教を信仰していた人が亡くなったのだが、

その後にお骨を引き受けたり資産を相続する人が兄妹しかいなかった。

 

キリスト教徒だったのがその人だけだったので、

葬儀はキリスト教で執り行われたが、

その後の納骨は寺にお願いしてよいものかと相談があった。

遺族は仏教徒なのだ。

 

私の回答はそれでもよいのではないかということだった。

これには私が冷めた見方をしていると思われてもしょうがないところがあるが、

宗教がいかにあるか、という観点のみで客観視した回答に相違ない。

 

宗教がいかにあるか、ということは共同体の形成に基づく。

ただ、低度な共同体を形成するような、迷信的なことが、

特定の教義や信仰をもたないのであれば民俗学の範囲に入るだろう。

 

問題なのは、宗教を通して形成される共同体があるのか、

それとも、形成された共同体に宗教が持ち込まれるのか、ということである。

 

この場合はどうだろう、先述の話においてだ。

・故人はキリスト教の信徒であったから、葬儀はキリスト教だった。

・遺族は仏教徒であるので、お骨は仏教寺院に納骨してもよいか。

これは、遺族という関係性が先にあって、そこに宗教の問題を感じないだろうか。

 

たまにキリスト教と仏教の対話を聞くことがあるが、

その中で私が覚えている事に、「慈悲」は共通している。ということがある。

 

神でも仏でもいいが、絶対的超越者というのは、

人間存在を憐む慈悲によってその存在意義が示される側面がある。

そこに宗教的自己と現実的自己の対話が成り立つという恰好だ。

 

どうしたら我が身が救われるのか、我が身とは何かということの中で、

確かにそこに在った関係性が失われる事実と向きあう時間に弔いの必要がある。

 

その時間において、膝を折り、手を重ね、礼を尽くす以上の事が、

人間の事実を前にして、それを教えられるところにあるのだろうか?

 

その姿に慈悲をかける超越的絶対者があるという宗教的自己を立てるのなら、

それはキリスト教であれ、仏教であれ、礼を尽くそうとする姿に違いはないだろう。

 

遺族の弔い方が、誰の文句に流される必要があろうかと私は思う。

 

故人の遺志を尊重してキリスト教の墓地に埋葬するべきだとか、

あるいは遺族をキリスト教の共同体に所属させるということも、

できなくはないのかもしれない。

しかしそれは、遺族という関係性を無視していると私は考える。

親兄弟があるのは宗教のおかげではないからだ。

(ともすれば、宗教によっては教義として子を成せということもあるが、

 一代限りの入信であることがなければこうした問題はそもそも起こらない)

 

なしたこと、なされたことに礼をする上で、宗教の垣根は必要ないだろう。

私はそう思っている。

今のところは。

 

飲み終わったので今日はここまで。